友人を「パーソナルCRM」で管理すると、なぜ違和感があるのか
「パーソナルCRM」という発想は、表面的には筋が通っている。本当に好きな人との連絡を続けるのが苦手なら、連絡を続けるプロが使う仕組みを借りてきて、狙いを見込み客から友人に変えればいい。名前、最終連絡日、次に連絡する予定——欄をそのまま持ってくれば、問題は解決したように見える。実際に試した人の多くは、数ヶ月以内にやめてしまう。それは怠けたからではない。その道具は、そもそも別の問いに答えるために作られているからだ。
その言葉は見た目以上のことをしている
「顧客関係管理」という名前は、具体的な仕事のためについた。企業が売り込む可能性のある相手全員を記録し、収益につながる誰一人として取りこぼさないようにする。この一文のどの部分にも、関係そのものの外にある目標——成約、契約更新、ノルマ——が前提として組み込まれている。この仕組みは関係を良くするために存在しているのではない。関係を成果につなげるために存在していて、その成果が予定どおり起きたかどうかで自分自身を評価する。
元の文脈では、これは何も後ろ暗いことではない。営業のパイプラインは正直にパイプラインであって、誰もそれを隠していない。問題が始まるのは、その構造をそのまま残して名前だけを友人のものに差し替えた瞬間だ。構造は、古い目標を静かに運び続けるからだ。「最終連絡日」という項目は、自分がかつて「この顧客が冷める前の最後の接点」を意味していたことを知らない。ただそれが今も同じ問いだと思って動き続けるだけだ。
具体的に何がおかしくなるのか
大きく三つあり、分けて考える価値がある。避けられるものと、そうでないものがあるからだ。
人が順位づけされる。CRMの価値は丸ごと優先順位づけにある——どの顧客から先に対応すべきか。これを大切な人のリストに当てはめると、出来上がるのは「どの友人がいちばん滞っているか」を問う機械であり、それは相手についての問いではなく、自分の成績についての問いだ。友人が並べ替え可能な一行のデータになった瞬間、注意力の一部は「気にかける」ことから「並べ替える」ことへ移ってしまう。
リマインダーが本人に代わって話し始める。営業のケイデンスが存在するのは、担当者がその日そう思っているかどうかに関係なく連絡を発生させるためで、そもそも「そう思うかどうか」は問題にされていない。同じ仕組みを友人に適用すると、生まれる通知の中身はただ一つ、「ある閾値を超えた」ということだけになる。それに従ってメッセージを送れば、言葉づかいがどれだけ温かくても、本当に伝えているのは「仕組みにそう言われたから送った」ということで、その事実は自分をよく知る相手には案外隠しきれない。
沈黙が、直すべき欠陥として扱われる。CRMでは、冷めた見込み客は失敗状態であり、道具全体がそれを防ぐために存在する。しかし友人との間に訪れる静かな期間は、それ自体が何かの失敗を意味するわけではない。人は、赤ちゃんが生まれたから、仕事がつらい月だったから、あるいは特に理由もなく静かになる。「静かであること」を常に何かの故障だと前提する仕組みは、直すべき何かがあるとずっと告げ続けてくる。必要のない罪悪感の多くは、この前提から生まれている。
その衝動自体は間違っていない
ここから「何かに頼りたいという気持ちそのものが良くない」と結論づけるのは早計だ。そうではない。その気持ちの中身は、「大切に思う人の数が、補助なしの記憶では抱えきれないところまで増えた。少し助けがほしい」というものだ。これはまったく合理的な望みであり、「CRM」という言葉に違和感があるからといって仕組みそのものを全部拒否すると、その語彙と一緒に本当に役立つものまで捨ててしまう。
変える必要があるのは、構造を持つかどうかではない。その構造が何を最大化しようとしているかだ。友人が面接の話をしていたことを覚えておいて、後で「あれ、どうなった」と聞けるようにするための仕組みは、営業というより日記に近いことをしている。情報が流れる方向は同じ——会話の外に出て、あとで見つけられる場所に置かれる——だが、それは誰かを順位づけしないし、連絡の空白を対処すべき事件として扱いもしない。
どんな道具にも使える、もっとすっきりした問い
ある道具がCRMに当たるかどうかを問うより役に立つのは、しばらく連絡していない相手に対して、その道具が実際に何をするかを見ることだ。「遅れている」ことを示す数字を出してくるか。その人を、自分が知っている他の誰かと比べて並べるか。やんわりした催促を、期限切れの口座のような言葉づかいで伝えてくるか。正直に「そうだ」と答えるなら、感じている違和感は何かを正しく察知しているのであって、それは几帳面さへの潔癖ではない。答えが「そうではない」なら——その仕組みがただ静かに、教えたことを預かって、だいたいいい頃合いに返してくれるだけで、スコアボードなど付いていないなら——その違和感はたいてい消える。もともと反対すべき帳簿など、どこにもなかったからだ。
何十年も、距離を越えて友情を保っている人たちは、たいてい記憶力がいちばん優れているわけではない。意図的に覚えておく方法を見つけながら、覚えている相手を口座に変えなかった人たちだ。道具そのものが問題だったことは、実はあまりない。問題は、道具がそっと運び込んでくる語彙のほうにある。