ホーム / 関係のガイド

SNSで友達の近況を知っているだけなのに、なぜ「今も仲がいい」と錯覚してしまうのか

彼女が転職したことを知っている。彼が別の街に引っ越したことも、だいたいどのあたりに住んでいるかも知っている。生まれた赤ちゃんの名前も、生後三か月のときの顔も、誰に似ているかも知っている。これはどれも、本人から直接聞いた話ではない。フィードで、スマホを置く直前の数秒間にたまたま流れてきただけだ。いつからか、こうして「知っている」ことが「連絡を取り合っている」ことのように感じられるようになった——最後に本当に言葉を交わしたのがいつだったか思い出そうとするまでは。その答えは、少し気まずくなるくらい昔のことだったりする。

なぜ「見ている」ことが「話している」ことのように感じられるのか

これは性格の問題ではなく、内側からはほとんど同じに感じられるのに、構造としてはまったく違う二つのことを、脳が同じ引き出しにしまい込んでしまっているだけだ。「その人の近況を知っている」ことと「その人に気にかけられている」ことは別の体験のはずなのに、そこで生まれる「ああ、知ってる」という小さな温かい感覚があまりに似ているせいで、脳はそれを取り違えてしまう。

本当の友情の中で「親しさ」がどこから生まれるかを考えてみるといい。誰かに何かを話し、相手がまさに自分に向けて返事をし、その結果として二人のあいだに何かが変わる——二人だけに通じる言葉、あとで思い出すかもしれない小さな貸し借り。フィードはこの取引の前半分だけを与えて、後半分をそっと消してしまう。近況は受け取る。でも何も交換されていない。あなたの中では何かが起きたように感じても、その関係自体には何も起きていない。

誰も気づかない非対称

これが単に「今どきのこと」では済まない、本当に奇妙な点はここにある。あなたは相手の近況を知っているのに、相手はたいてい、あなたが知っていることに気づいてもいない。相手が教えてくれたわけではなく、プラットフォームが教えてくれただけだ。コメントもメッセージも送らなければ、相手からすればあなたと、同じ投稿をたまたま見かけた見知らぬ人との区別はつかない。あなたは近況を「更新できた」と感じる。相手のほうは、もし何かあるとすれば、実際に連絡をくれた人に比べて、むしろ少し気にかけられていないとさえ感じているかもしれない。

これは本物の親密さが築かれる順番とはちょうど逆だ。親しさは、二人それぞれが相手に気づいてもらえる何かをすることで生まれる——返信、質問、あとで覚えている小さな出来事。フィードは一人が行動するだけで成立してしまい、しかもその一人はあなたではない。

なぜそれが、こちらから連絡を取る気を静かに消してしまうのか

ここが実際に影響の大きい部分だ。誰かの近況を「知っている」と感じた瞬間、本来ならメッセージを送るきっかけになるはずのあの小さなうずきが消えてしまう。「もう一年話していない」とは考えず、「先週投稿を見たけど、元気そうだった」と考える。この近況の一片は、以前なら電話やメッセージに向かわせていたはずの感情を、ちょうどぴったり満たしてしまう。しかもその後に続く連絡は何もないままに。人の暮らしに対する好奇心は、人と人をふたたび結びつける大きな力の一つだが、フィードはその好奇心が本来の仕事をする前に、静かに吸い取ってしまう。

この効果はさらに積み重なる。フィードを眺めるのはほぼ労力ゼロで、メッセージを送るのはそうではないからだ。スクロールには決断がいらない。「引っ越したんだね、新しい部屋はどう」と打つには、連絡を取ろうという決断が要る。その一歩は、フィードがたった今、無料で越えてくれたハードルよりずっと高い。似たような感覚を、ほとんど労力なしに与えてくれる代替品が目の前にあれば、たいていの人は静かにそちらを選ぶ。怠けているからではなく、そのうずきがすでに満たされてしまっているからだ。

簡単な見分け方

自分が誰かと本当に「連絡を取り合っている」のか、それともただ「見ているだけ」なのかを知りたければ、二つ問いを立ててみるといい。今この瞬間、相手がまだ知らない自分のことを一つ話せるだろうか。そして相手は、あなたについて何か知っているだろうか。正直に答えて、情報が一方通行——相手の近況は知っているが、相手はあなたの近況を何も知らない——なのだとしたら、それは「連絡を取り合っている」のではない。「近況をつかんでいる」だけだ。この二つは別のもので、関係と呼べるのはそのうちの片方だけだ。

実際に役立つこと

「見た」ことを、終わった出来事ではなく、きっかけとして使う

問題は投稿そのものではなく、それを「もうやり取りを済ませたこと」として扱ってしまう点にある。誰かが引っ越したこと、転職したこと、大変な一年を過ごしたことを知るのは、連絡を取るための立派な理由になる。それが連絡の代わりになってしまうのは、「知った」ことで「言葉にする」ことを済ませたつもりになったときだけだ。フィードが開いた話題を、そのまま閉じずに続けてみる——「新しい部屋の写真見たよ、いい感じだね。引っ越し、大変じゃなかった」。

投稿からは得られない一言を添える

すでにスクロールで知っていることをそのまま繰り返すだけのコメント——みんなが見た報告に「おめでとう!!」と付けるだけ——はほとんど何も伝えない。投稿そのものがすでに証明していたこと以上を、何も証明していないからだ。一方で、具体的な何かを尋ねるメッセージや、以前の本当の会話に触れる一言は、その逆を証明する。あなたがその人を「コンテンツ」としてではなく、「人」として気にかけ続けていたということだ。

「近況を知っているだけの人」に気づく

時々、自分が「近況をつかめている」と感じている人たちを、二つの山に分けてみる価値がある。最近実際に言葉を交わした人たちと、フィードを通じてしか近況を知らない人たちだ。友情が静かに別のものへと変わっていくのは、たいてい後者の山からだ。消えてしまうわけではない。ただ、もっと薄い代替品に置き換わっていくだけで、それは正面から見つめるまでは、内側からは本物とほとんど区別がつかない。

正直な但し書き

だからといって、遠くから誰かの暮らしを見ていること自体が悪いわけではない。わざわざ聞かなくても、友達が元気にしていると分かるのは素直にうれしいことで、その感覚を楽しむこと自体は何も間違っていない。問題があるとすれば、それは「置き換え」だけだ。「近況を知っている」感覚を、「連絡を取り合っている」感覚と取り違え、本来は後者にしか満たせない欲求を、前者に静かに満たさせてしまうこと。直すべきは、見るのをやめることではない。時々でいいから、見ることと話すことはもともと別物だったと気づき、それでもメッセージを送ることだ。