友達へのメッセージをリマインダー任せにするのは、不誠実だろうか
友達のことをふと思い出す。スマホを開く。でもメッセージは送らず、代わりに「来週、連絡する」というリマインダーを設定する。アプリを閉じたあと、うっすらとした後ろめたさのようなものが残る——まるで、この友情がアラームなしでは続かないと認めてしまったかのように。本当に良い友情なら、放っておいても自然に思い出すものではないのか。そう自問した瞬間、多くの人はせっかく設定したリマインダーを消し、結局何もしない。それは、最初に感じていた「わざとらしさ」よりも、ずっと悪い結果だ。
その違和感が指しているもの
まず、この違和感を正確に言葉にしておく価値がある。「リマインダーは不誠実だ」というのは、実はみんなが本当に言いたいことではないからだ。本当の懸念はもっと狭い。予定を組まなければ続かない友情は、何もしなくても自然に湧く気持ちで続く友情より本物ではない気がする、そしてリマインダーを設定するという行為そのものが、その「自然に湧く気持ち」がもう消えてしまった証拠のように感じられる。人に言われないと思い出せないなら、自分はもう、自分の意思でその人のことを思い出さなくなっているのではないか、と。
この懸念は、ほとんどの大人がもう手にしていない友情のかたちを引きずっている。同じ教室、隣の席、同じビルに毎週いた頃なら、この不安は成り立った——「思い出す」という作業は距離の近さが代わりにやってくれていたから、努力の跡が見えなくて当然で、それがそのまま親密さの証にもなっていた。大人になってからの友情のほとんどは、もうそういう仕組みでは動いていない。親しさそのものが小さくなったわけではない。かつて無償で思い出させてくれていた仕組みが静かに消え、それに代わるものが自動的には現れなかっただけだ。
リマインダーが担いうる、まったく違う二つの役割
混乱の大半は、「リマインダー」をひとまとまりのものとして扱っていることから来る。実際には、まったく性質の違う二つの仕事をこなせる。
命令としてのリマインダー。今すぐこの人にメッセージを送れ、時間が来たから。人々がこのタイプに違和感を覚えるのは正しい。主導権をアラームに渡してしまっているので、そのあと送られる言葉がどれだけ温かくても、構造としては相手への気持ちではなく、信号への服従になってしまっている。
再登場としてのリマインダー。この人は存在している。しばらく思い出していなかった。ここにまた現れた。それだけのことで、何かをしろとは指示していない。しばらく注意の外に静かに落ちていた人を、もう一度視界に戻すだけで、そのあとメッセージを送るか、「今日はやめておこう」と思うか、電話にしようと決めるかは、完全に自分次第だ。お風呂の中でふとその人のことを思い出したときと、本質的には何も変わらない。
あとで気まずさが残るリマインダーは、ほとんどが前者だ。実際に役立つリマインダーは、ほとんどが後者だ。そして、ロック画面上ではまったく同じ見た目をしている。違いは仕組みの中にあるのではなく、それを見た瞬間の、あの半秒の中にある。
「本当に大切なら思い出せるはず」という判定基準の誤り
この判定基準は、注意力が「自分にとって本当に大切な人」の順に自然と並ぶという前提に立っている。実際はそうではない。注意力は「最近、目に入った順」に並ぶのであって、その露出のされ方は、自分がその人をどれだけ大切に思っているかとは、ほとんど関係がない。頻繁に近況を発信する友人は、自分から何もしなくても視界に居座り続ける。逆に、静かにつらい時期を過ごしている友人——本当は思い出されることがいちばん助けになるはずの相手——は、何の通知も出さないまま、気づかぬうちに意識の外へ消えていく。それは思いやりが減ったからではなく、その人を意識の表面に押し戻してくれる仕組みが、単純に何もないからだ。
リマインダーを設定するというのは、かつて同じ建物に住んでいたことで偶然手に入っていたその「再会の機会」を、自分の手で意図的に作り直しているだけのことだ。パートナーの記念日をカレンダーに書き込んでおくことを、記念日そのものが偽物になると言う人はいない。子どものお迎えの時間を覚えておく親を、子育てを作業に変えたと言う人もいない。奇妙なことに、友情だけが唯一、何の助けも借りない記憶だけで維持されて当然だと思われている関係で、記憶というごくありふれた限界が顔を出すたびに、それが「愛情の足りなさ」の判決として静かに読み替えられてしまう。
その違和感が正しく言い当てていること
とはいえ、この違和感がまったくの的外れというわけでもない。ただ、狙っている的が「リマインダー全般」よりずっと狭いだけだ。正しく言い当てているのは、こういう具体的なケースだ——リマインダーの中身が、相手についてではなく自分についてのものになっている場合。「連絡が34日途絶えている」というリマインダーは、自分がノルマをこなせているかどうかの記録でしかない。それに従って送るメッセージは、どんな言葉で包んでも、実質的には「期限が来た」ということを伝えているだけになり、それは受け取る側にも伝わってしまう。カレンダーが日付を教えてくれただけの誕生日メッセージが、なんとなく薄っぺらく感じられるのと同じことだ。
一方で、名前だけ、あるいはもっといいのは、最後に知っていた具体的な出来事が書いてあるリマインダーは、まったく逆の働きをする。それが渡してくれるのは、借金の督促状ではなく、ひとりの人間そのものだ。「タケシ——生検の結果待ち」と書いてあれば、その後どうなったか知りたくなる。「連絡遅延:タケシ」と書いてあれば、通知を消したくなる。同じ友人、同じリマインダーのはずなのに、頭の中で起きることはまるで違う。片方は相手についての情報で、もう片方は自分についての成績表だからだ。
負担にならない使い方
いくつか調整するだけで、リマインダーは「役に立つ側」にとどまり続けられる。
- 時刻ではなく、幅を持たせる。「今週水曜の何時」より、「この二週間のどこかで」のほうが、実際に余裕のある日にリマインダーが重なりやすい。
- 名前だけでなく、最後に知っていた具体的な出来事も添える。文脈のあるリマインダーは、連絡したくなる本物の理由をくれる。名前だけのリマインダーは、ただ「遅れている」という感覚だけを与え、それこそがアプリを閉じさせる感覚そのものだ。
- 「今日はやめておく」を、それだけで完結した答えにする。スヌーズや削除は、覚えていることの失敗ではない。何も差し出せない週は誰にでもある。罪悪感なしに先送りできないリマインダーは、いつのまにか本来なるはずではなかった「命令」に変わってしまっている。
- 古くなったリマインダーは、何の儀式もなく消えていっていい。再び現れたときにもう意味を感じないなら、それはその友情が今どんな形になっているかを教えてくれているだけで、払い損ねた借りではない。
正直なところ
ここまでのことは、もともとなかった愛情を作り出してくれるわけではない。リマインダーにできるのは、ある人をもう一度自分の注意の中に戻すことまでで、その人に連絡したいという気持ちそのものは、本物でなければならない。もしその気持ちがいつも本物でないなら、解決すべきなのはリマインダーの問題ではない。けれど、もっとよくあるケース——ちゃんと大切に思っていて、連絡しようとずっと思っているのに、ちょうどいい日が自分からはやって来ない——であれば、リマインダーは友情の代わりにはならない。ただ、放っておけば何も思い出させてくれない友情に、忙しく平凡な記憶力を追いつかせてくれるだけのものだ。