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一度も会ったことのないオンラインの友達は、本物の友達と言えるか

コメント欄で、グループチャットで、ゲームの中で、やけに専門的な掲示板で出会った相手がいる。同じ部屋にいたことは一度もなく、声すら聞いたことがないかもしれない。それでも、毎週顔を合わせる人にも話していないことを、この人には話している。何かいいことや悪いことがあったとき、真っ先に伝えたい相手の上位にこの人が入る。そんなとき誰かに軽く「それって本物の友達なの」と聞かれて、今まで答えを用意したことがなかった問いの前で、言葉に詰まる。

この違和感はどこから来るのか

この問いの奥には、かなり古い前提がある。そして人類の歴史のほとんどの期間、それは単純に正しかった。友情には物理的な近さが必要だった。なぜなら、それ以外の経路が存在しなかったからだ。相手の考えていること、笑いのツボ、その週に何を抱えているかを知るには、直接聞ける距離にいるしかなかった。「本物の友情」と「会ったことのある友情」は別々のカテゴリーではなく、同じものだった。他に選択肢がなかったからだ。

その制約はもう存在しない。しかも、なくなってからそれなりの時間が経っている。それでも前提のほうは、その理由より長く生き延びてしまった。人は今も、何かが「本物かどうか」を測る物差しとして物理的な同席を持ち出しがちだ。それが友情を成り立たせている本当の仕組みだからではなく、単にかつてはそれしか物差しがなかったからにすぎない。今感じている違和感は、今よりずっと選択肢の少なかった世界から受け継いだものだ。

友情を実際に支えているもの

舞台設定を取り除くと、友情はそう多くない材料でできている。時間をかけて、本当のことを互いに話す。相手がそれをちゃんと受け止め、大事に扱う。何かが起きたときにそこにいる。前回話したことを覚えている。ある持続的な形で、この人に知られていて、自分もこの人を知っている。どれも場所を必要としない。何年も続いている、一度も会ったことのない相手とのやり取りは、これらの要素をすべて満たすことができる。しかも、形式上は「会っている」けれど中身は年に三回の集まりでの世間話だけ、という関係より、しっかりしていることさえある。

むしろ、こんな見方もできる。共有する現実の場がないぶん——見ている共通の友人もおらず、気にする社会的な序列もないぶん——一部の人は、パーティーで顔を合わせる可能性がほぼゼロの相手にこそ、本当のことを早く話せる。これは普遍的な話でも、自動的に優れているという話でもない。ただ、「会ったことがないから本物ではない」という物差しそのものが、的を外していると言えるくらいには本物だということだ。

本当に欠けているもの

だからといって、この形式に本当の限界がないわけではない。それは正直に、脇にどけずに名指ししておく価値がある。

「ついでに一緒にいる」時間がない。会って続く友情の分量の多くは、友情のためだけに用意されたわけではない時間から積み上がっている。コーヒーを買いに行く道すがら、車で移動している間、同じ部屋で何も話さずただ心地よく黙っている時間。オンラインでは、接触しているほぼすべての時間が、誰かがわざわざ話そうと選んだ時間になる。それはある意味で熱心だが、別の意味では薄い。チャットウィンドウ越しに、ただ静かに誰かの近くに存在するというやり方は存在しない。

物理的に駆けつけられない。相手が体調を崩していても、引っ越しの最中でも、その年でいちばんつらい一週間を過ごしていても、食事を届けることも、そばに座ることも、荷物を一緒に運ぶこともできない。差し出せるものは本物だが、距離を挟んでしか差し出せない。そして、近くにいることでしか成立しないケアの種類が確かにある。ここがいちばん鋭く、いちばん正直に認めるべき欠落で、なかったことにしても誰の得にもならない。

基本的には、文字になった版のその人としか出会えない。画面はいろいろなものをふるい落とす。実際に笑ったときの声、家のにおい、隣の部屋にいる家族とどう接しているか。人のある部分は、同じ物理空間にいてはじめて伝わる。オンラインだけの友情は、どれほど深くても、二人でその距離を実際に縮めない限り、その層を欠いたままになる。

その欠落が、答えを決めるわけではない理由

ここで立ち止まる価値のある事実がある。今の時代、「会っている」友情の多くも、実際にはほとんど文字でやり取りされている。街の反対側に住んでいて、年に二回しか会わないけれど、その合間はほぼ毎日オンラインで話している友人。分量で見れば、その友情はすでにほぼ画面越しに成り立っていて、それはオンラインだけの友情がすべてを託しているのと同じ経路だ。その友情が本物であることを誰も疑わないのなら、媒介そのものは決め手になったことが一度もなかったことになる。決めていたのは、使える経路が何であれ、二人がその中で互いのために現れ続けたかどうかだけだ。

だから両方の事実を同時に成り立たせる、正直な言い方はこうなる。オンラインだけの友情には、本当に欠けているものがある。そして同時に、それでも本物の友情である。この二つは矛盾しない。友情は本物でありながら不完全でいられる。子どもの頃からの相手との遠距離の友情が、少し違う形で本物でありながら不完全であるのと同じだ。ひとつの次元を欠くことは、その関係そのものを欠くこととは違う。

正直にうまくいっていないと認めたほうがいい場合

基準になるのは距離ではない。どんな友情でも心配になるはずの兆候が、ここにも現れているかどうかだ。会話がいつの間にか、知られることではなく、自分を演じることに変わっていないか。少し難しいことにぶつかると、その途端に続かなくなっていないか。共通の興味だけで成り立っていて、その興味が消えた瞬間に蒸発してしまわないか。これらはオンラインの友情でも、対面の友情とまったく同じくらい、真剣に受け止める価値がある兆候だ。その場合、問題は「オンラインであること」ではない。どこにあっても、同じつまずきを抱えていたはずだ。

正直な補足

実際に会うことは、その友情が本物であるための条件ではない。けれど、まったく意味がないわけでもない。もし段取りの問題ではなく、単に緊張が理由でずっと避けているのなら、そこは自分に正直になる価値がある。機会があるのに、そのたびに静かに断っているなら、少し立ち止まってもいい。会うことでその友情が本物になるからではなく、会うことで何が増えるのか、単純に興味があるかもしれないからだ。義務感より好奇心のほうが、距離を縮める理由としてずっとまっとうだ。機会がないなら、その友情に注釈をつける必要はない。どんな友情にも必要なのと同じもの——正直さ、覚えていること、そして本当に大事なときに、できる形でちゃんと現れる誰かがいること——それだけがあればいい。