流産が友情を変えてしまうのはなぜか
多くの人は、妊娠しても一番不安定な時期を過ぎるまで、周りには伝えない。だから、もし早い段階でだめになってしまったとき、それはたいてい、夫婦二人のほかに「そんなことがあった」と知る人がほとんどいない時間の中で起きる。「前」の姿を知っている人もいなければ、見返せる報告もなく、出産予定日さえ、二人だけの心の中にしか書かれていないことも珍しくない。悲しみというものは、たいてい誰かに見届けられて初めて、周りの人にとって「本当のこと」になる。この種の喪失には、その見届け役がそもそも存在しないことが多い。それは悲しみが小さいということではなく、友情の側が、このときどう振る舞えばいいのか分からなくなるということだ。
なぜ、ほかの喪失と同じようには扱われないのか
親を亡くした、仕事を失った、離婚した——そういう友達には、周りの人にも見え、名前をつけられる喪失として、ある程度決まった反応の仕方がある。流産の場合、たいていそのステップ自体が飛ばされてしまう。もし妊娠のことを誰にも話していなかったなら、友達には反応のしようがない。それは冷たいからではなく、単純に手がかりとなる情報を何も持っていないからだ。そして知っていたとしても、すぐに次の難しさがやって来る。何週目だったのか、それによって「つらさの度合い」は変わるべきなのか、話を持ち出すのは慰めになるのか傷になるのか、両親の中にしか、そして医学的にはほとんど誰の目にも触れることのなかった存在について、いったい何を語ればいいのか。分からないことがあまりに多く、間違えることへの恐れも大きいせいで、多くの人はつい黙ってしまう——けれどその沈黙は、当事者の目には、慎重さとしてではなく、ほとんどの場合「気にかけていない」としか映らない。
実際に距離を生んでいるもの
誰もが無意識に、週数で悲しみの重さを測ってしまう
誰も口には出さないが、多くの人は心のどこかで、早い時期の流産のほうが軽いことのように扱ってしまう。まるで悲しみが妊娠週数に比例するかのように。でも実際には、そうではないことがほとんどだ。夫婦が悲しんでいるのは、その存在そのものだけではなく、すでにカレンダーに丸をつけていた出産予定日であり、すでに話し合っていた名前であり、頭の中ですでに生き始めていた来年という時間そのものであることが多い。それらは、早い段階で終わったからといって縮んだりはしない。それなのに、週数だけを基準に無意識に割り引いてしまう友達がいると、当事者は自分の悲しみそのものが「大げさすぎる」ように感じてしまうことがある。
慰めのつもりの言葉が、たいてい逆向きに働く
「早くてよかったね」「きっと意味があることだから」「また頑張ればいいよ」——こうした言葉のほとんどは、言っている本人がその場の気まずさを和らげるために口にしているもので、聞いている側には「まだ終わっていないことを、もっと早く、もっと少なく悲しんでほしい」という要求のように届いてしまう。しかもこれらの言葉は、いま実際に起きた一つの喪失を、まだ起きてもいない仮定の未来にすり替えてしまう。当事者が今立っているのは、その仮定の未来ではない。
これが「話していいこと」なのか、誰にも分からない
正面から触れてほしいと思う夫婦もいれば、たとえすでに知っている相手であっても、二度と話題にしてほしくないと思う夫婦もいる。葬儀のように、誰もが知っている決まった対応の形がこの件にはないため、友達はどちらのタイプなのかを推測するしかなく、そのどちら向きに間違えても——早すぎるタイミングで触れても、最後まで一切触れなくても——当事者の目には「わざとそうしている」ように映ってしまうことがある。
実際に役立つこと
- 話すかどうか、どこまで話すかの決定権は、当事者に返す。「話したいだけ話してくれていいし、話したくなければそれでまったく構わない」——この一言があるだけで、双方の探り合いがなくなり、決める権利が本来決めるべき人の手に戻る。
- 理由づけや励ましは省き、誰にも約束できない未来を語らない。「きっと意味があるから」「また授かるよ」は、誰も保証できない未来についての言葉だ。それよりも「本当につらいね、ずっと気にかけているよ」というような、何かを解決しようとしない一言のほうが、たいてい素直に受け止めてもらえる。
- すでに知っていることについては、公にされるのを待つ必要はない。友達が直接話してくれたのは、あなたに知っておいてほしかったからであって、公に話し合ってほしいからではない。静かに、個人的に一言伝えるだけで十分だ。
- 言われなくても、その日のことを覚えておく。来なかった出産予定日や、喪失そのものが起きた日は、何年経ってもつらい一日でありながら、周りにその理由を覚えている人がいなくなっていることが多い。その日に、何も求めない短いメッセージを送ることは、その出来事が忘れられてしまったわけではないと伝えることになる。
- 友情の、なんでもない部分もそのまま続ける。悲しみは、すべての会話の中心にある必要はない。いちばんつらい話題のときにしか顔を出さない友情は、友情というより支援グループのようになってしまう。それとは関係のない、いつも通りのやり取りのほうが、むしろ心地よく感じられることが多い。
正直な但し書き
言葉を間違えてしまう友達もいるだろうし、時にはかなり的外れなこともあるだろう。それは気にかけていないからではなく、これほどありふれていて、これほど静かに起きることについて、どう話せばいいのかを教わった人がほとんどいないからだ。それでも傷ついていいことに変わりはないが、その事実には少しの寛容さを持つ余地がある。同時に、当事者の側が、たとえ悪気のない相手であっても、この悲しみを受け止めきれない人からは距離を置く必要があってもいい。それは必要なだけ続いて構わない。この時期に友情を保たせるのは、完璧な言葉を選ぶことではない。当事者のペースに付き合い、急かさずにそばにいて、周りの誰もがもう口にしなくなったあとも、その日のことを覚えている友達の存在だ。