子どもを亡くした友人に、何と声をかければいいのか
知らせを聞いて、スマホの画面を何度も開いては閉じる。書きかけの文章は、打ち終わる前からもう違う気がしてくる。文房具店に並ぶ弔いの言葉は、こういう場合のために書かれていない。年老いた親のための言葉、長い闘病の末のための言葉はあっても、わが子を亡くした親のための言葉は、はじめから想定されていない。うまい言葉が見つからないのは、あなたの気遣いが足りないからではない。子が親より先に逝くという、本来あってはならない順序に対して、誰も型を持っていないからだ。
この喪失だけが「型」を持たない理由
友人の喪失にどう寄り添うかを、人はたいてい他人のふるまいを見て身につける。年老いた親、長い病気の末の死、社会がある程度「そういうこともある」と受け止められる死には、ゆるやかな共通の型がある。差し入れをする、葬儀で一言かける、数週間後に様子を聞く、そして少しずつ落ち着いていくものだと想定する。だがこの喪失には、その型がそのままでは通用しない。子が親より先に逝くことは、誰にとっても想定の外にあり、周りの人間は手元に使える型を持っていないことが多い。この「型がない」という事実は、些細なことではない。この喪失がほかの喪失より応じづらいと感じる、いちばんの理由がそこにある。正しい言葉を探すより先に、そもそも正しい言葉など存在しないかもしれないと認めるほうが誠実だ。ただし、そばにいるための正しいやり方は、ある。
いちばんそばにいてほしいときに、人が離れていく理由
ほかの出来事なら必ず駆けつけるはずの友人が、子を亡くした親のまわりからは、なぜか姿を消していく――そういう現象がよく起きる。それは冷たさからではなく、ある具体的な恐れから来ることが多い。何か間違ったことを言ってしまう恐れ、余計に傷つけてしまう恐れ、そして「話題にすること」が「思い出させること」になるという勘違いだ。まるで、友人がこの子のことを一瞬でも忘れられる瞬間があるかのように。だがそんな瞬間は存在しない。友人は一秒たりとも忘れていない。話題を避けることは、思い出させずに済ませることにはならず、ただ「自分が愛した子どもが、口にするのも憚られる存在になった」と友人に感じさせるだけで、すでに抱えている重荷の上に、もうひとつ重荷を積むことになる。
もうひとつ、あまり自覚されない理由がある。この種の喪失を知ると、誰もが「親という立場が、自分が思うほど子どもを守れる立場ではない」という事実に、否応なく向き合わされる。その恐れと長く向き合うより、目をそらすほうがずっと楽だ。もし自分の中にその気持ちがあるなら、正直に認めておく価値がある。そうしないと、友人は子を失った上に、友人関係まで失うことになりかねない。
実際に助けになること
名前を口にし、実在した一人の人間として尋ねる
名前を避けたくなる気持ちは、ほかのどんな話題を避けたくなる気持ちとも同じところから来ている――まるで名前を出すことで初めて思い出させてしまうかのように。そうではない。名前を口にし、その名前に具体的な問いを添えよう。朝ごはんの時、どんな子だったか。あの子が犬のことをよくどう言っていたか。今このことを知ったら、あの子は何と言っただろうか。こうした問いは、その子が今もこの世界の記憶の中に実在する一人として扱われていることを、友人に伝える。これはとても大きな意味を持つのに、実行する人はほとんどいない。ほとんどの人が、間違えることを恐れるあまり、そもそも尋ねようとしないからだ。
「お子さんは何人ですか」という問いが、一生ついてまわる
これはあまり語られない、続いていく傷だ。「お子さんは何人ですか」というのは、見知らぬ人からごく自然に向けられる質問だが、子を亡くした親は、その後の人生でずっとこの質問を受け続け、どう答えてもすっきりしない。代わりに答えを用意してあげることはできない――誰にもできない――が、本人に直接、静かに尋ねることはできる。新しい人の前で名前を出してほしいか、代わりに訂正してほしいか、それとも気まずい沈黙のまま流してほしいか。望むことは人によって違う。推測するより、尋ねたほうがいい。
大切な日を覚えておく
誕生日。命日。子がある程度大きかったなら、卒業していたはずの日。まだ小さかったなら、生まれてくるはずだった日。お盆の時期に、いつも以上につらくなる人も多い。こうした日は、世間が思うように、時間とともに楽になっていくわけではない。むしろ多くの親にとって、年月が経つほど静かに、孤独に、つらくなっていく。まわりの人間が、その日を覚えていなくなっていくからだ。その日にひとこと、何の日かを名指しして送るメッセージ――「今日、〇〇のことを考えてた。あなたのことも」――は、このリストの中でほとんど間違えようのない行為であり、友人が前もって「誰かが覚えていてくれる」と当てにできる、数少ないことのひとつだ。
具体的な申し出をし、みんなが止めたあとも続ける
最初の数週間は、本物の支えが集まりやすい。食事、付き添い、駆けつけてくれる人。消えていくのは、八か月目にこそ意味を持つはずの支えのほうだ。差し入れの波はとうに引き、まわりの多くが「もうそれなりに時間が経ったから、落ち着いてきているだろう」と勝手に思い込む頃だ。実際にはそうでないことが多い。世間的にはもう不自然に思われる時期を過ぎても、具体的な申し出を続けること――「木曜の夜、空いてる。会いたくなければ無理しなくていい」――は、断っても友人に何のコストも生まない上に、そのたびに「もう大丈夫な人として静かに扱いを終えられてはいない」と伝えることになる。
たいてい助けにならないこと
- 無理に意味を見出そうとする言葉。「これも何かの意味があってのこと」「あの子はもう苦しまなくていい」――こうした言葉の多くは、言っている本人の居心地の悪さを和らげるためのもので、聞いている親が選んだわけでも、受け入れたいわけでもない枠組みを押しつけてしまう。
- 「まだ若いんだから、また授かれる」「ほかにお子さんがいてよかった」。どちらも、子どもを取り替えのきく存在として扱ってしまっている点で、どの親の実感とも重ならない。亡くなったのは、ほかの誰でもない、その子だ。既にいる子も、これから授かるかもしれない子も、その事実は変えられない。
- 自分の経験と比べること。本当に近い重さの喪失でない限り避けたほうがよく、たとえ近くても慎重に。「わかるよ、うちの犬が死んだときも――」という言葉は、距離を縮めようとして口にされることが多いが、ほとんどの場合、相手の喪失を軽く扱っているように響いてしまう。
- 「そろそろ」を匂わせること。この喪失には、解決すべき節目というものが存在しない。四十九日や一周忌を「そろそろ落ち着いているはず」の区切りとして扱うことは、そもそもカレンダー通りに進まない過程に、余計な圧力をかけることになる。
正直な但し書き
ここに書いたことは、喪失そのものを軽くするものではないし、そうあるべきでもない。ここに「解決策」はひとつもない――もとから存在しないからだ。できるのは、友人が一番、他人に気を遣う余裕のないときに、あなたまでもがその「気を遣う相手」のひとりにならないようにすることだ。完璧な言葉を見つける必要はない。必要なのは、多くの人がすでに離れていったあとも、まだ名前を口にし、まだ尋ね、誕生日だったはずのその日に、まだそこにいることだ。