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配偶者を亡くした友人に、何と声をかければいいのか

知らせを聞き、葬儀に行き、告別式で何か言葉をかけるが、口にした瞬間、それが足りないことに自分でも気づく。誰かが煮物を届け、誰かが手紙を送る。そして数週間もすると、その人以外のみんなの生活は元に戻っていく。当人の生活だけは、しばらくのあいだ、いや長いあいだ、元には戻らない。多くの人が悩むのは葬儀でかける言葉についてだが、本当に難しいのはそのあとに続く毎日のほうだ。

配偶者を亡くすというのは、ひとつの出来事ではなく、生活の骨組みが崩れることだ

この種の喪失が、友人が経験する他のつらい出来事と何が違うのかを、はっきりさせておく価値がある。それによって、実際に何が助けになるかが変わってくるからだ。配偶者は、単に一番愛していた相手というだけではない。多くの夫婦にとって、その日にあったちょっとした不満を聞いてくれる相手であり、買っておくべきものを覚えていてくれる相手であり、帰ってきたときにそこにいて、一日にひとつの形を与えてくれる相手でもある。その人がいなくなると、友人が失うのは愛情だけではない。確定申告を誰が担当するかから、家に帰ったときそこに誰がいるかまで、ふつうの一日を支えていた仕組みそのものを丸ごと失うことになる。その穴は数週間では塞がらない。数か月後のごく普通の火曜日、車の異音を誰に話せばいいのか分からないと気づいた瞬間に、初めてその大きさに気づくことも多い。

なぜ、一番必要なときに気遣いが消えてしまうのか

亡くなった直後の反応は、たいてい早くて手厚い。それ自体は人の善意として本物だ。問題は、その反応が「危機はだいたい何日くらい続くものか」という感覚に合わせて作られていて、この種の喪失が実際にはどれくらい続くのか、つまり年単位で続くという事実には合わせられていないことにある。葬儀が終わり、冷蔵庫が他人からの差し入れでいっぱいになったころ、多くの人の中にある「何かしなければ」という感覚は、目に見える危機の兆候が消えたのに合わせて、静かにオフになる。友人の生活は、そのスイッチには追いついていない。むしろ周りの誰もが「もう落ち着いただろう」と思い始めたころに、本人はようやく事の重さを実感し始めていることが多い。

もうひとつ、あまり語られない理由がある。夫婦ぐるみで親しくしていた家族は、そのうちの片方だけと親しくし続ける方法が分からないことが多い。かつて夫婦二人に向けられていた食事の誘いは、悪意もなく、ただ気まずくしたくないという理由だけで、いつの間にか途絶えてしまう。友人は配偶者を失っただけでなく、「夫婦単位」で成り立っていた人間関係の輪ごと失うことがある。しかもそれは、これ以上何も失う余裕がないまさにそのときに起きる。

実際に助けになること

名前を口にする

多くの人は、亡くなった人の名前を口にすることを避ける。それが悲しみを思い出させてしまうと考えるからだが、まるで本人がその日のことを忘れているかのような発想だ。本人は一瞬たりとも忘れていない。名前を避けることは、たいてい「まわりが気まずく感じている」ことの表れであって、思いやりではなく、むしろ友人に「自分が愛した人が、口にするのも憚られる存在になった」と感じさせてしまうことがある。名前を口にしよう。その名前とともに、本物の問いを投げかける。「あの人だったら、これをどう思っただろう」という一言は、他のどんな慰めの言葉よりも力を持つ。

誘い続け、断るかどうかは本人に委ねる

夫婦連れの集まりや旅行に、居心地の悪い思いをさせたくないという理由で誘わなくなること――この種の「配慮」は、避けようとしている気まずさよりも大きな痛手を与えることが多い。自分の生活から、いつの間にか静かに外されていくことは、最初の喪失の上に重なる、もうひとつの喪失だ。誘い続けよう。断りやすい形にしておこう。今夜、夫婦だらけの部屋にいられるかどうかは、こちらが決めることではなく、本人に決めさせよう。

抽象的な申し出ではなく、具体的な提案をする

「何か必要なことがあったら言って」は、いちばん余力のない人に、必要なものを見極め、それを口にしていいかどうか判断し、実際に頼むという三つの作業を丸ごと押しつけてしまう。具体的な提案なら、その三つの作業が要らなくなる。「木曜日に買い物に行くから、欲しいものがあればリストを送って」「土曜の朝、犬の散歩は自分がするから、返信できなくても大丈夫」。具体的な提案は受け入れやすく、罪悪感なく断ることもできる。

二か月後に、そして半年後に、もう一度連絡する

最初の二週間は、ほとんど全員が駆けつける。半年後にまだ連絡を取っている人は、ほとんど残っていない。だが実はそのころこそ、孤独がいちばん深まっている時期であることが多い。まわりの世界はすっかり日常を取り戻しているのに、本人だけがそうなっていないからだ。何か月も経ってからの、何でもない一言――「特に理由はないけど、最近どうしてるかなと思って。夜、一人で過ごすのはどんな感じ」――は、葬儀の前後にかけるどんな言葉よりも重く届く。それが、めったにないことだからだ。

たいてい助けにならないこと

  • 無理に前向きな意味づけをしようとすること。「それでも長く幸せな時間を過ごせたじゃないか」「時間が解決してくれる」といった言葉は、多くの場合、言っている本人の居心地の悪さを和らげるためのものであって、聞いている本人のためのものではない。「これは本当につらいことだ」とただ認めることのほうが、意味づけをしようとするどんな試みよりも助けになる。
  • 四十九日や一周忌を、ひとつの区切りとして扱ってしまうこと。悲しみはカレンダー通りには進まない。配偶者を亡くした多くの人にとって、二年目は一年目よりつらいことがある。最初の衝撃が薄れたぶん、孤独感がじっくりと根を下ろすからだ。そしてそのころには、もうほとんど誰も声をかけてこない。
  • 「そろそろ次に進んでは」「新しい出会いも」といった、ほのめかし。善意からだとしても、それは外側から勝手に期限を設定する行為であり、決めていいのはこちらではない。

正直な但し書き

ここに挙げたことは、喪失そのものを軽くするわけではないし、そうあるべきでもない。できるのは、まわりが静かに引いていったあとの部屋に、友人をひとり残さないようにすることだ。配偶者のことをよく知っている必要はないし、完璧な言葉を見つける必要もない。必要なのは、八か月経ってもまだそこにいて、名前を口にし、本物の問いを投げかけ続けること――そのころには、たいていの人はもう先に進んでしまっている。