自分は友人のことをよく覚えているのに、友人は自分のことを覚えていないのはなぜか
友人の母親が来週手術を受けることを、あなたは覚えている。友人が今の上司と合っていないことも、契約更新まであと三週間しかないことも、友人がずっと気が重いと言っていた出張が来月であることも、全部覚えている。それなのに「最近どう?」と聞かれて、以前自分が話したはずのことを友人がひとつも思い出せないと気づく瞬間がある。誰が悪いわけでもないのに、これだけ丁寧に覚えていることが何の意味も持たないような、妙に寂しい気持ちになる。
そもそも同じ作業をしていない
まず分けて考える価値があるのは、たとえ同じ会話の中であっても、あなたと友人は同じ種類の頭の使い方をしているわけではないということだ。友人が母親の手術の話をしたとき、あなたにとってそれは「他人の人生についての新しい情報」であり、他に競合するものがない状態で頭に入ってくるので、単純に残りやすい。逆に、あなたが自分のことを話すとき、友人はそれを聞きながら同時に自分の一週間のこと、自分の悩み、自分のまだ片づいていない用事のことも抱えていて、それらが同じ保存領域を奪い合っている。これは誰かを免罪するための理屈ではなく、単に注意というものがそう働くというだけの話だ。他人のニュースは、それを生きているのが自分ではないからこそ、覚えておくのが軽い。
もうひとつ、そもそもの「話し方」の違いもある。自分のことを話すという行為そのものが目的になっている人がいる——上司の話をあなたにすることで考えを整理し、話し終えたらそれで一段落する、というタイプだ。友人がそういうタイプなら、その話はもともと保管してほしくて話されたものではなく、口に出すこと自体が目的だった。一方あなたは、聞いたことを特に意識せずそのまま留めておく性質なのかもしれない。これは、どちらがより大切に思っているかの違いではなく、単なる性質の違いだ。
友人がより大切に思っていない証拠ではない
記憶力の悪さを、そのまま「大切にされていない証拠」として読んでしまいたくなるし、それが実際に正しいこともある。けれど現実には、あなたに何かあれば真っ先に駆けつけてくれる人が、先月あなたが話したことをまるで覚えていない、ということは普通にある。逆に、細部まですべて覚えている人が、本当に必要なときには一度も現れなかった、ということもある。記憶することと大切に思うことは、たしかに相関はあるが、その結びつきはゆるい——たまたま一緒に現れることが多いだけの、別々の能力だ。誰かがあなたを本当に大切に思っていて、それでも「細部を覚えておく」という、練習で伸ばせる具体的なスキルだけが苦手、ということは十分にありうる。料理がとても上手な人が、極端な方向音痴であるのと同じようなことだ。
この非対称が誰にも気づかれないまま続いてしまう、もうひとつ静かな理由がある。覚えている側は、たいてい話を切り出す側でもあるということだ。「手術どうだった?」というひとことは、あなたが友人の代わりに開けてあげているドアであり、友人自身が開ける必要はない。外から見ると、時には自分自身から見ても、それは「お互いの人生を気にかけ合っている」対等な関係に見える。けれど構造としては、片方がすべてを引っぱり出し、もう片方はそれに答えるだけになっている。
いつ、どう伝えるべきか
だからといって、この非対称がどこまで大きくなっても構わないという話ではない。見分ける価値があるのは、「単に細部を覚えるのが苦手な友人」と、「あなたが何度ドアを開けておいても、決してそこから入ってこない友人」の違いだ。何か月も同じパターンが続いているなら、後者は前者よりも注意を払う価値がある。
どちらなのかを知る方法は、心の中で帳簿をつけることではなく、責めずに直接試してみることだ。友人がいつもあなたにそうするように、自分から、前置きなしに、自分の最近の出来事をひとつ話してみる。そして次に話すときに、何か返ってくるかどうかを見る。多少的外れでも、多少遅くても、それらしい質問が返ってくるなら、それはちゃんと数えていい。実験のようなことをしたくないなら、はっきり言葉にしてもいい。「あのことどうなったか、いつか聞いてくれたら嬉しいな」と、一度だけ、軽く、それまでの不満の羅列を背負わせずに言う——それだけで、自分が実際に何と向き合っているのかが見えてくることが多い。
抱えているものをどうするか
それがはっきりするまでの間も、他人のためにどこまで覚えておくかは、自分で選んでいい。誰かの人生をまるごと自分の頭の中に抱えることは、たとえそれが自然に得意なことだとしても、良い友人であるための必須条件ではない。すべてを覚えておくことが、いつの間にか気楽な習慣ではなく、頼まれてもいない仕事のように感じられてきたなら、細かい部分は手放して、自分にとって本当に大事なものだけを残して構わない。友情は、誰も頼んでいない水準の記憶に対して、感謝を返す義務など負っていない。
正直に言うと
この非対称だけで、その友情に判定を下すことはできない。長く続いている友情の多くには、より覚えている側と、より自分から連絡しない側がいて、そしてその線引きは「どちらがより愛しているか」とはほとんど一致しない。本当に大事なのは、友人の記憶の仕組みがあなたと同じかどうかではなく、あなたが何度も開けてきたそのドアを、いつか向こう側から歩いて通ってくれるかどうかだ。