友人と会うのが結婚式と葬式のときだけになるのはなぜか
もう三、四年、話していない。そこへ招待状が届く。あるいはもっと重く、誰かが亡くなったという知らせが届く。そして気づけば同じ部屋にいて、まるで時間が経っていなかったかのように話し込んでいる。何時間でも話せる。「次はこんなに間を空けないようにしよう」と、そのときは本気で思う。そして家に帰ると、また三、四年が過ぎる。なぜこの二つの場面でだけ、それが起きるのか、他のどんな場面でも起きないのかは、考えてみる価値がある。
他の何をやっても駄目なのに、なぜこの二つだけうまくいくのか
疎遠になった相手に連絡を取ろうとするとき、たいてい二つの壁にぶつかる。どちらの番なのか誰にも分からないこと、そして連絡を正当化できるほどの出来事が起きていないように感じることだ。結婚式や葬式は、その両方を同時に、しかもお互い何もしないまま取り除いてくれる。
日取りを決めたのは自分ではない。その部屋にいるべきだと決めたのも自分ではない。連絡する価値があるかどうかを自分で判断する必要がない。悲しみであれ祝いごとであれ、その出来事自体がすでに十分な理由になっているからだ。だから、いつもなら「十分な口実」を探して立ち止まってしまう自分の一部が、今回は何もする必要がない。そして実際に顔を合わせてしまえば、いちばん気まずいはずの再開の一言——「久しぶり」——すら必要なくなる。ただ、以前のように、何の努力もいらなかった頃と同じように、隣に立っているだけでいい。
あの温かさが、駐車場を出たとたんに消えてしまう理由
あの夜の部屋の温かさは、まぎれもなく本物だ。だが、それは問題が解決した証拠ではない。あの夜を成り立たせていたのは部屋そのもの——決まった日取り、共有された場、どちらも何かを決める必要がなかったこと——であって、そのどれも一緒に家には帰ってこない。この友情を細らせる前に支えていた足場は、まだ元のまま失われていて、良い一晩を過ごしたくらいでは組み直せない。
だからこそ、夜の十一時に心の底から「もっとこういう機会を作ろう」と言っても、それがほとんど何にもつながらない。誰かが約束を破ったわけではない。本物の気持ちに、実行の仕組みが何もついていないだけだ。いつやるとも、どうやるとも決まっておらず、誰かの結婚式や誰かの死によって一晩だけ切られていた二つの障害は、自分の生活に戻った瞬間、また元通りに戻ってしまう。
葬式にはもう一つ、独特の要素がある
悲しみには、ふだんは胸にしまっておくような本音を口にさせる働きがある。「次の葬式まで待たずにこうしよう」もその一つだ。軽い気持ちで言っているわけではないし、嘘でもない。ただ、それを言わせた開放感は悲しみによる開放感であって、二人のどちらかが恒久的に変わったわけではなく、いちばん強い喪失感と一緒に、たいてい閉じていく。それは誰の人間性の問題でもない。もともと、その週を超えて一人で生き延びられる類の感情ではないというだけのことだ。
その再会が、実際には何を証明しているのか
あの夜から一つだけ、真剣に受け止める価値があることがある。多くの人が心の中でひそかに抱えている問いに答えてくれるからだ——ここまで静かになった友情は、本当に終わったのか、それともただ眠っていただけなのか。会話が無理なく再開したこと、冗談がまだ通じたこと、時計を見ないまま何時間も過ぎたこと。これはノスタルジーが語っているのではない。れっきとした情報だ。この友情を成り立たせていたものは、まだそこにある。欠けているのは、つながりそのものではない。ただ、それを再びつなぎ直す仕組みが欠けているだけだ。
行事が終わったあと、それをどう続けるか
いずれ大きなことをするのではなく、今週、小さなことをする
ありがちな間違いは、その結婚式や葬式そのものを「関係を取り戻したこと」だと考えて、次の連絡にふさわしい、同じくらい大きな出来事を待ってしまうことだ。そんな出来事はもう来ない。実際にうまくいくのは、小さくてすぐの一歩だ。数日以内に、まだお互いのことを考えているうちに、一つだけメッセージを送る。ちゃんと会って話そうという計画ではなく、あの部屋がすべてではなかったという証しでいい。
あの部屋から、具体的な一つの話を持ち帰る
あの何時間かの会話のどこかで、何か具体的な話が出ていたはずだ。転職の話、家族の体調の話、計画している旅行の話。その具体的な話は、あの温かい気持ちよりも価値がある。気持ちは翌週には薄れるが、具体的な話は薄れる必要がないからだ。実際に聞いた一つの具体的なことについて連絡するほうが、漠然とした「会えてよかった」よりずっと力を持つ。
その行事を、すべてではなく、きっかけにする
結婚式や葬式は友情を再び動かすきっかけになりうるが、それはそのあとに、もっと小さな何かが起きて初めて意味を持つ。この再会を、次の小さな連絡にはそれ自体の理由がいらないという許可証だと考えるといい。あの一晩で、二人の間の距離が、どちらかの気持ちの問題では一度もなかったことを、すでにお互いに証明し合っているのだから。
正直な但し書き
こうした再会のすべてに続きが必要なわけではない。ある友情は、特定の部屋や、人生の特定の段階、特定の顔ぶれの中にこそ存在していて、そこにとどまったままで完全にいい場合もある。それは失敗ではなく、その友情はもともとそのためにあったというだけのことだ。ただ、あの夜の会話の再開しやすさに自分自身が驚いたなら——ゼロからの再スタートというより、続きから始まったように感じたなら——その驚きは信じる価値がある。それはたいてい、その友情が実際には終わっていなかったことを教えてくれている。ただ、どちらも自分で作らなくていい機会を、待っていただけなのだ。