サークルや教室が終わると、なぜ友達関係も終わるのか
数ヶ月のあいだ、毎週同じ四、五人と顔を合わせていた——フットサルのサークル、陶芸教室、ランニングクラブ、実際に集まって話す読書会。それは単なる「都合のいい顔見知り」ではなく、本物の友人関係のように感じられていた。ところが教室が最終回を迎え、サークルのシーズンが終わり、あるいは自分が別のジムに移った途端、数週間のうちに、最後に誰かと連絡を取ったのがいつだったか思い出せなくなっている。誰かと揉めたわけではない。あの関係が最初から偽物だったわけでもない。ただ、それを支えていたものが、今は終わってしまった「その活動」以外に何もなかっただけだ。
あたたかさは本物、仕組みは借り物だった
あの人たちを好ましく感じられた理由は、単に人柄がよかったからだけではない。すべてが驚くほど手間いらずだったからだ。時間はすでに決まっていて、場所もすでに決まっていて、話題にも毎回困らなかった——全員が同じことをするために集まっていたのだから。誰も「会うかどうか」を決める必要がなかった。スケジュールが毎週、誰に頼まれることもなく、代わりに決めてくれていた。これは大人の友人関係のなかでは、実はかなり珍しい種類の気楽さで、あのグループがどんな新しい関係よりも早く「近い」と感じられた理由の大きな部分を占めている。
問題は、その気楽さがその関係自身のものではなかったということだ。それは活動そのものに属していて、関係にはただ貸し出されていただけだった。教室が終われば、その貸しは返済期限を迎える。あとに残るのは、互いをかなり好ましく思っている人たちの集まりでありながら、一度も「自分から連絡を取る」という選択をしたことがない人たちだ。
会社や学校の友人より早く消えていく理由
状況が終わったあとに何かが残るタイプの関係もある。仕事なら、ゆるくつながった知り合いのネットワークが残るし、また顔を合わせる理由もそれなりにあり、共通の知人が細い糸をつないでくれることもある。学校なら、何年分もの共有された歴史と、互いを知っている同期の集団が残るので、二人の間が静かになっても、その関係は第三者を介して生き延びることができる。十二週間の教室や、シーズン一回きりのサークルには、そうしたものがほとんど残らない。相手の名字すら知らないことも珍しくない。二人をまた同じ場所に引き戻してくれる組織もなければ、誰かが特別に段取りをしない限り、また道が交わる理由もない。
この種の集まりは、たいてい友人グループよりも人数が多く、それが静かに事態を悪くしている。十人、十五人の連絡を保つことに、誰も個人的な責任は感じない。責任は薄まって、結局「特に誰のものでもない」ものになる。もともと日程調整のためだけに存在していたグループチャットは、もう調整すべき日程がなくなった瞬間、話すことも失ってしまう。
静かになるとき、実際には何が起きているのか
「なんとなく疎遠になった」という言い方は、もっと具体的な仕組みを覆い隠してしまうので、ここは正確に言っておく価値がある。お互いにとって、相手は「週に一度会えるとうれしい人」になった——これはそれ自体、本物で価値のある関係の形だが、「週一で会う」という条件が外れても自動的に生き残る種類の関係ではない。そして、この親しさは相手にとっても「その場限りのもの」だったのではないかと誰もが薄々思っているので、自分から一対一で連絡を取って、それが本当だったと確かめてしまうことを、誰も望まない。だから、このグループは現代の多くの友人関係と同じ終わり方をする——誰かが決断したのではなく、全員が「誰か他の人が先に動くかどうか」を見合ったまま、時間だけが過ぎていく。
一人か二人を、実際に先へ連れていく方法
グループ全体を維持する必要はない。むしろ全員を維持しようとすることが、たいてい何も始める前に力尽きる原因になる。十人のうち、本気で会えなくなったら寂しいと思える相手は、たいてい一人か二人だ。それを最終回のあとではなく、前のうちに見極めておく。
そのグループ専用の連絡手段以外で、連絡先を交換しておく。教室やサークルのグループチャットの中にしか存在しない番号やアカウントは、そのグループチャットごと消えてしまいがちだ。
終わる前に、具体的な一言を言っておく。「そのうちまた」ではなく。「そのうちご飯でも」は、グループチャットそのものと同じくらいの重みしかない——最終回が終わった瞬間に、それも一緒に消えていく。「来週の木曜、空いてる?」という言い方だけが、終わりを越えて生き残る。あとで誰かが思い出して蒸し返す必要がないからだ。
残りの人たちは、それを損失だと考えずに、自然に手放す。その教室やサークルで一緒だった人たちのほとんどは、もともと長く続く友人関係にはならない運命だった。それは、一緒に過ごした時間を後から偽物にするものではない。彼らはそこにいるあいだ、果たすべき役割——お互い何も考えずに済む、気持ちのいい時間——をきちんと果たしてくれた。スケジュールが終われば、その関係もきれいに終わっていい。
正直なところ
あたたかい時間のすべてが、維持すべき友人関係に発展する必要はない。教室やサークルが、その期間だけの心地よい付き合いを生んで、それで終わることには何の問題もない。ただ、そのなかのいくつかは、本当に長く続くものになれたかもしれない。「なれたかもしれない」と「実際になった」を分けるのは、たいてい、みんなが散り散りになる前に送る、具体的で気負わない一通のメッセージだけだ——それは、あの活動が毎週、誰にも気づかれないまま自動的にやってくれていた、あの小さな連絡と、実は同じものだ。