話すことがない相手と、なぜSnapchatの連続記録を続けてしまうのか
Snapchatの友達リストの中に、数百という数字と小さな炎のアイコンがついた名前がある。だが、その相手と最後に本当は何を話したか、と聞かれても答えられない。毎日、どちらかが天井や靴、食べかけの昼食の写真を送る。もう一方が数時間以内に、同じくらい中身のない写真を送り返す。もし言葉にして説明を求められたら、どちらもこれを「友情」とは呼ばないだろう。それでも、この記録を断ち切ることは、なぜかそれ以上に大きなことのように感じられる。
その数字が、実際に数えているもの
Snapchatのストリークが数えているのは、ただ一つのことだけだ——過去24時間のうちに、二人の間でスナップが一枚交わされたかどうか。その写真が、相手の一日の中の本当の瞬間なのか、締め切り30秒前に習慣的に撮った壁の写真なのかを、区別する術を持たない。二人が本当に近く感じていた週なのか、お互い特に話すことがなかった週なのかも、見分けられない。どちらであっても炎の明るさは変わらない——これが、それが測っているのは関係ではなく習慣だという、最初の手がかりだ。
一回途切れることが、なぜ実際以上に痛く感じるのか
ここで働いているのは、まったく取るに足りない数字に対して、驚くほど効果的に働く損失回避だ。400日目でストリークを失う痛みは、そもそも400日に到達したことがない場合よりも鋭く感じられる——十円玉を失う不快感が、十円玉を拾う喜びを上回るのと同じ理屈だ。いつからか、その数字は「連絡を取り合っている」ことの副産物ではなく、自分の名前がついた一つの実績になっていた。そして今、その実績を守らなければという気持ちが、相手との間に実際に何が起きているか、あるいは何も起きていないかとは無関係に、独立して存在している。
その写真は、かつては意味を持っていた
ストリークは何もないところから生まれたわけではなく、本物の行動の上に育った。友達同士は、相手が今何を見ているのか純粋に気になるからこそ、一日を通して何気ない写真をやり取りする。だが多くの二人にとって、ある時点から、写真自体が面白いものである必要はなくなった——数字を維持することが、それを送る本当の理由になっていたからだ。「あなたのことを考えたから、これを見せたい」ということと、「炎を消さないようにする」ことは、かつては同じ行為だった。今もスナップを送り合っている相手の中には、もうそうではなくなっている人もいる——それがどちらなのか、自分自身に対しては正直になる価値がある。
これは、あなたが薄情な友人だという証拠ではない
ここまでの話は、あなたが実は人を大切にしていないとか、何か月も自分を騙してきたということではない。ストリークは一つの仕組みであり、仕組みは作られた通りのことを正確に行う——ある行動が続くことに報酬を与えるだけで、その行動がまだ意味を持っているかどうかについては、何の意見も持たない。あなたが座って「数字の方が人より大事だ」と決めたわけではない。アプリが静かに「炎を消さないこと」を毎日の小さなタスクに変えただけであり、毎日の小さなタスクは、当事者が実際どう感じているかとは関係なく、非常によく完了されるものだ。ストリークが、その下にあった友情よりも長生きしていると気づくことは、あなたが不注意な人間だという発見ではない。かつては連動して動いていた数字と関係とが、離れてしまっただけのことだ。
実際にこの二つを見分けるもの
- 代わりに一度、本物のものを送ってみて、何が返ってくるか見る。反射的な写真の代わりに、今日実際にあったことの一文や、相手の近況を尋ねる質問。それが本当のやり取りに発展するなら、ストリークの下にはまだ守る価値のあるものがある。一言だけの返信で終わるなら、それは炎が決して教えてくれないことを教えてくれている。
- もしアプリが明日、記録をリセットしてしまったら自分がどう感じるか、想像してみる。正直な答えが「喪失感」ではなく「安堵」なら、その数字が、あなたの代わりに相手を気にかける役目を果たしてきたということであり、それはもともと永遠には続けられないことだった。
- アプリの外で起きたことについて、最後に話したのがいつだったか思い出してみる。一日一枚の写真だけに縮小してしまった友情は、たいていの意味においてすでに終わっていて、ストリークだけがそれをまだ数え続けている。
正直な但し書き
ここまでの話は、すべてのストリークが空っぽだとか、それを続けることが誰かに告白すべき小さな不誠実だという主張ではない。多くのストリークの背後には、今も本当に大切に思っていて、けれどきちんと話す機会がなかなか持てない相手がいて、その毎日の写真は、何かの代わりではなく、二つの忙しい生活の間に張られた細くても本物の糸である。見分ける価値があるのは、この友情に判決を下すためではなく、自分自身に対してひそかに問うことだ——この数字は、まだ本物の何かの代わりを務めているのか、それとも、かつてそこにあった友情の代わりに、今はそれだけが残っているのか。前者であれば、そのまま大切に守る価値がある。後者であれば、それを失敗として扱うことなく、終わらせる価値がある。