友人が大変な時期にいることを、なぜ忘れてしまうのか
たわいもない話で笑いながら十分ほど会話をしたところで、ふと気づく。この友人の父親は、この一か月ずっと入退院を繰り返している。それなのに、一度もその話を尋ねていない。気にかけるのをやめたわけではない。会話の途中のどこかで、そのことがまだ終わっていないという事実そのものを、すっかり忘れていただけだ。そして気づいた瞬間、ある種特有の重い自責の念が押し寄せてくる。誰かの人生でいちばん大変な時期を、なんでもない火曜日のように扱ってしまったような感覚だ。
記憶が保持しているのは「その人の普段の姿」であって、更新され続ける情報ではない
友人について知っていることの大半は、ある種の安定した要約として頭の中に収まっている――だいたいこういう人で、だいたいいつもこんな調子、という形で。何かがその状態をしばらく崩したとき、記憶は二つのものを同時に抱えることになる。長年かけて作られてきた「いつもの姿」と、それよりずっと新しく、ずっと薄い、「今は違う」と告げる上乗せの情報だ。実際に働いているのはこの上乗せの部分なのに、それはもともと、その下にある「いつもの姿」ほど強くはできていない。放っておくと、記憶はいちばん慣れ親しんだ形――つまり、特に何も問題がない状態――に戻っていきやすい。
これは注意力が特別欠けているという話ではない。もっと古く、もっと強い既定値に逆らって、意識的に保ち続けなければならない事実には、どれも同じことが起こる。友人のことを忘れているのではない。もとの姿に、記憶が引き戻されているだけだ。
終わりの見えない大変な時期は、なぜ一度きりの悪い知らせより記憶に残りにくいのか
一度きりの悪い知らせには、記憶がつかまえられる取っ手がある――日付、電話、今も鮮明に思い浮かぶ瞬間。手術には、それが行われた朝がある。解雇には、それを告げられた日がある。記憶はこうした具体的なものに自分を結びつけるのが得意で、だからこそ、こうした知らせを受けた当日にメッセージを送るのは、それほど難しくない。
だが、終わりの見えない大変な時期には、たいていそうした取っ手がない。親がゆっくりと弱っていくこと、なかなか終わらない転職活動、張り詰めた結婚生活、期限の見えない不妊治療――どれも記憶がつかまえられる瞬間を持たない。そもそも、そんな瞬間自体が存在しないからだ。あるのは、はっきりした区切りのない、長い中間部分だけであり、区切りのないものこそ、記憶がいちばん保持しにくい形をしている。
具体的には、三つのことが不利に働いている。
思い出すきっかけが、二度と与えられない。ある知らせは一度だけ話題にのぼり、その後誰も何も言わなければ、静かに意識の外へと薄れていく。解決したからではなく、それを新しく保つものが何もなかったからだ。続いている状況を新鮮なまま保つには、誰かが繰り返し話題にし続ける必要があるが、それを経験している本人こそ、いちばんそれをしたがらない。話すこと自体に疲れているからだ。
目の前の「普段どおり」が、以前の情報を上書きしてしまう。友人はいつもどおり現れ、いつもと同じ冗談を言い、あなたの最近の様子を尋ねてくる――多くの人は大変なことのさなかでも、あえてそうすることで、自分を保とうとするからだ。この目に見える「普段どおり」は、数週間前に一度だけ聞いた事実よりも、記憶にとってずっと強い合図になる。両者がぶつかれば、今目の前に見えているほうが勝つことが多い。
その出来事が、自分にとってと同じくらい相手を占めているはずだと思い込んでしまう。深刻なことが起きているなら、それは相手の頭の中に常にあり、だから何のきっかけもなく自分の頭にも常にあって当然だ、と考えるのは自然なことだ。だが実際には、誰の意識も自分自身の大変な出来事の周りを行ったり来たりしていて、それは本人も例外ではない。ある話題が三週間出てこなかったからといって、意味を失ったわけではない。たいていの場合、それをもう一度話題に戻す一言が、たまたまなかっただけだ。
忘れてしまうことの代償は、とても静かに積み重なる
この代償は、口論よりもずっと静かで、外からはほとんど見えない。あなたが忘れると、友人には二つの選択肢しか残らない。自分からその話を持ち出すか――それは、誰も差し出していない気遣いを求めているように感じられるかもしれない――それとも、その瞬間をやり過ごし、「結局これは自分一人で抱えていることなんだ」と静かに心の中で片づけてしまうか。どちらも劇的な出来事ではない。だが、どちらもある種の、はっきりとした孤独であり、それが積み重なっていくのは、まさに一見すると何も起きていないように見えるからだ。
一方、あなた自身がその抜け落ちに気づいた瞬間には、実際の出来事に見合わないほどの強い自責の念が湧き上がってくることが多い。その自責の念は、少し疑ってかかる価値がある。それは記憶の問題を、人としての問題であるかのように扱っているが、この二つはまったく別のものだ。相手の状況が重要でないと決めたわけではない。記憶は、はっきりとした取っ手を持たない物事に対して、いつもどおりの振る舞いをしただけだ。
解決策は「常に気を張ること」ではない
ついやりたくなるのは、その状況を常に意識の中心に置いておこうとすることだが、それはうまくいかないし、試みること自体がひどく消耗する。誰かの状況を常に意識し続けようと意志の力だけで頑張ることは、電話番号を気合いで覚えようとするのと同じくらい無理がある。実際に役立つのは、もっと小さく、もっと具体的なことだ。その状況を、ひとつの事実としてメモしておく。ただし、一度きりの記録としてではなく、おおまかな「見通し」も一緒に書き添える。「お父さん入院」だけでなく、「お父さん、入退院を繰り返している。終わる時期は不明。二週間後くらいにまた聞いてみる」というふうに。あとで本当に必要になるのは、その事実そのものではなく、「これはまだ現在進行形かどうか」という感覚だからだ。
続いている状況は、一度きりの細かい情報とは違う種類のメモとして扱ったほうがいい。誕生日や役職は、変わるまではずっと事実のままだ。だが大変な時期というのは、その下でずっと形を変え続けている――良くなったり、悪くなったり、解決したり、長引いたり。最初の事実だけを書き留めたメモは、次にそれを見たときにはもう古びていて、役に立たなくなっている。おおまかでもいいから見通しを書いておくことが、使えない記録を、数週間後に実際に活かせるものへと変えてくれる。
忘れていたことに、その場で気づいたとき
会話の途中でその抜け落ちに気づくと、つい、最初からその話を切り出すつもりだったかのように振る舞うか、逆に急に、少し芝居がかった心配を見せてしまいたくなる。どちらも必要ない。それよりも、素直にそのまま言葉にするほうがうまくいく。「あ、すっかり聞きそびれてた――お父さん、その後どう?」というひと言には、ほとんど負担がかからず、明らかに正直で、いかにも用意していたような滑らかな質問よりも、たいていの場合、うまく伝わる。人は、その質問が前から覚えていて出てきたものか、その場で思い出して出てきたものかを、案外見分けている。だが、「今思い出した」と正直に認める質問であっても、それはあなたが気にかけている証として伝わるのであって、落ち度としては伝わらない。
正直な但し書き
誰もが自分の大変な時期を常に気にかけていてほしいわけではない。むしろ、たわいもない世間話や、意味のない冗談のような、ごく普通の会話をこそ求めている人もいる。それが、その一週間の中で唯一、大変な出来事に触れずにいられる時間だからだ。すべてのやり取りを様子うかがいに変えてしまうと、かえってその出来事だけで自分を見られているように感じさせてしまうこともある。ここで大事なのは、その状況を常に意識の最前面に置き続けることではない。それがまだ相手にとって重要である間、意識から完全に消え去ってしまわないようにすることだ。この二つは違う目標であり、その違いは、相手がその話をどんなふうに口にするかに、たいてい表れている。どんな一般的なルールよりも、相手が実際にあなたに話してくれたことのほうが、頼りになる手がかりになる。