「覚えている」ことと「親しい」ことは同じではない
彼女が三月にCFA試験を受けたこと、彼の父親が二年前に脳卒中で倒れたこと、パクチーが苦手で水曜日しか空いていないこと。これだけ見れば、親しい相手の記録のように見える。だが、それは一年に二回しか会わない同僚の記録かもしれないし、義理で連絡を取り続けている親戚の記録かもしれない。「覚えている」ことと「親しい」ことは、あまりに頻繁に一緒に現れるので、つい同じものだと思ってしまう。けれど、この二つを混同することには現実の代償がある。決めている仕組みがまったく違うからだ。
なぜこの二つが同じものとして扱われるのか
親しさは、直接観察するのが難しい。自分自身の感覚としてすら、相手がどれくらい安心してあなたに話しているのか、正確には測れない。一方で「細部を覚えているかどうか」は観察できる。妹の名前を覚えているか、仕事の内容を知っているか、前に話したことを今回も聞かれるか。片方は見えて、片方は見えない。見える方を、見えない方の代わりに使ってしまうのは自然なことだ。それは合理的な近道であり、近道であることに変わりはない。
覚えていることが本当にもたらすもの
何の意味もないと言うのは不誠実だ。促されないまま細部を持ち出すことは、相手が目の前にいない間もあなたの意識の中に居場所を持っていたという証拠になる。これは具体的な証拠で、ほとんどの人はごく少数の相手からしか受け取れない。それに、毎回自分の近況をゼロから説明し直す手間も省ける。その手間が積み重なることこそ、遠く離れた友情が静かに薄れていく理由の一つだ。だから、覚えていることは確かに仕事をしている。ただ、すべての仕事をしているわけではなく、そこを取り違えたところから混同が始まる。
覚えていることがもたらさないもの
相手の仕事、家族、予定を完璧に把握していても、深夜十一時に電話をかけてもらえる相手になるとは限らない。親しさは情報で組み立てられるものではなく、その関係の中で実際に賭けられ、そして持ちこたえたものから組み立てられる。意見がぶつかっても関係が壊れなかったこと。何かを頼んで、本当に応えてもらえたこと。一番みっともない姿を見られても、その後の扱いが変わらなかったこと。これらはどれも、メモに書き留められるものではない。相手の予定表を見られて、きょうだいの名前も全部言える赤の他人がいたとしても、その人はその相手について多くを知っていながら、まったく親しくはないのだ。
この取り違えが実際に害を及ぼす場面
問題が起きるのは、「覚えていること」が親しさの中でも難しくて時間のかかる部分の代わりに使われ、その支えとして使われなくなったときだ。細部にとても几帳面なのに、友人が本当に苦しいときに一度も現れたことのない人は、親密さを早く築いているのではなく、まったく別の技能を磨いているだけだ。逆もまた本当だ。肩書きは忘れてしまうけれど、離婚を二度乗り越える間ずっとそばにいてくれた友人の方が、何でも覚えているのに「本当に大丈夫か」と一度も聞いたことのない知人より、ずっと親しい。目標がいつの間にか「もっと存在する」ことから「もっと事実を覚える」ことにすり替わると、事実そのものが気遣いの演技のように感じられ始める。その違いは、うまく言葉にできなくても、たいていの人は感じ取る。
親しさが求めるもの、記憶には渡せないもの
記憶力よりも大事なことが三つあり、そのどれも前もってメモに書いておけるものではない。都合の悪いときにもそこにいること――親しさは、代償を払う瞬間にこそ築かれるのであって、予定を合わせやすい瞬間に築かれるのではない。何も求められていないときの一貫性――何も頼まれていないときの態度と、何かを頼まれたときの態度が同じかどうか。そして、相手の話に実際に心を動かされる意志があること――正しく分類して次に進むのではなく、聞いた瞬間に本当に何かを感じること。メモは正しい質問を思い出させてくれる。しかし、その質問を口にする瞬間に本気であるかどうかまでは、メモには決められない。
記憶を関係そのものと取り違えないために
ここまでの話は、人について覚えておくことや、会話と会話の間の空白を越えて残るように書き留めておくことに反対しているわけではない。問題が起きるのはメモそのものではなく、メモを、それが本来証明できないものの証拠として扱ってしまうことだ。一つの目安として、記憶はあなたが準備をして相手の前に現れるためのものであり、あなたが現れる理由そのものではない、と考えておくとよい。もし記録が充実しているという理由だけで誰かと親しくなった気がしているなら、それは実際に二人の間で起きたことによるものではないかもしれない。それは気づく価値のあることだ。記録はその仕事をしていない。その仕事は、今もあなたがやるべきものだ。
正直な但し書き
これは逆方向にも当てはまり、そちらの方がむしろ安心できる話だ。完璧な記憶力がなくても、人と親しくなることはできる。細部は忘れてしまうけれど毎回そこにいてくれる友人は、友情のやり方を間違っているわけではない。多くの人にとって一番親しい関係は、相手がどこで働いているかすら覚えていられない人との関係だったりする。よく覚えていることは、もともと本物である関係から摩擦を取り除く手段だ。その関係を本物にした当のものだったことは、一度もない。