なぜ大人になると、友達と時間を合わせるのが難しくなるのか
友人への気持ちが薄れたわけではない。減ったのは、誰のものでもない時間のほうだ。友情は、大人の生活の中でまだ「誰のものでもないひとまとまりの時間」を必要とする数少ないもののひとつで、そこが本当に足りていない。予定が六週間先へずるずる延びていく理由は、ほとんどこれで説明がつく。
あの自由な時間はどこへ消えたのか
学生時代は、一日の大半が誰のものでもなかった。同じ顔ぶれと同じ場所に何時間も物理的に居合わせていて、その時間には何の用事もついていなかった。だから友情は予定を立てる必要すらなく、授業の合間や寮の廊下、誰も計画していない帰り道のような余白の中で勝手に育っていった。あの種の時間は、大人の自由時間の小型版ではない。大人の生活の中には、ほとんど存在しない種類の時間だ。平日のほぼすべての時間には、すでに持ち主がいる——仕事、通勤、パートナー、子ども、火曜日からずっと片づいていない用事。友情は、決まった枠を持たない数少ないもののひとつで、それは一見「融通が利く」ように聞こえるが、実際には正反対に働く。枠を持たないものこそ、二つの用事が同じ一時間を取り合ったとき、真っ先に譲る側に回るからだ。
これは人としての欠陥ではないし、気持ちが薄れた証拠でもない。かつて無料で友情を支えていた「一緒にいるだけで、何の課題もない時間」は、もっと強い主張を持つ何かに、一時間単位で置き換えられていっただけだ。残っているのは、より少ない愛情ではない。より少ない在庫だ。
二人でも難しいのに、複数人ならなぜもっと難しいのか
二人分の予定表が重なる四十分を見つけるだけでも、すでに一仕事だ。五人分の予定が重なる一晩を見つけるのは、見た目よりずっと難しい問題になる。全員の都合が合う確率は足し算ではなく、掛け算でどんどん下がっていくからだ。人が一人増えるたびに、同じ枠に「いいよ」と言わなければならない予定表がもう一つ増える。そして大人の予定表は、「いいよ」より「無理」と言う回数のほうがずっと多い。かつては火曜日にふらっと集まれていた友人グループが、今では小さな交渉に近いことをしなければならず、交渉というのは、先延ばしにされる典型的な種類の作業だ。
グループでの集まりが以前よりずっと前もって準備を必要とするように見えるのも、三月にグループチャットで出た計画が七月になってもまだ「日程調整中」のままなのも、これが理由だ。誰も気乗りしなくなったわけではない。ただ、計算そのものが難しくなった。
「そのうち時間合わせよう」という罠
いつまでも決めない形での日程調整は、実は最も良くないやり方だ。本来温かいはずのことを、誰も責任を持たない小さな事務作業に変えてしまう。「そのうち会おうね」は一つの返信を招き、その返信がまた別の提案を招き、それを三往復もすると、たいていの人はやり取りを続けるより、そのままスレッドを冷めさせるほうを選ぶ。誘おうとした気持ちのよさは、調整の煩雑さの下に埋もれてしまう。
実際にうまくいくのは、その正反対だ。一度だけ、具体的な時間帯を提示し、断りやすい形にしておく。「木曜の七時空いてるんだけど、ご飯どう?無理なら気にしないで」——これで一通のメッセージのやり取りで話が済む。「融通が利く」ように見せることを手放す代わりに、実際に起こり得ることを手に入れる。そして、誰かが時間を提案し、それが外れるリスクを引き受けるという、いちばん骨の折れる部分がそもそもなくなる。
連絡は、枠が空くのを待たなくていい
本当の意味での集まりがなかなか実現しないとき、それだけを唯一意味のある連絡だと見なして、他のすべてをその実現待ちにしてしまいがちだ。実は、その考え方自体が、その友情を静かに損なっている。通勤中に送るボイスメモ、その人を思い出させた一枚の写真、前に話していた具体的な何かについての一つの質問——どれも二人の予定表が重なる必要はなく、それでいて本当に大事な仕事、つまり「その空白の間、忘れられていないと感じてもらうこと」を果たしている。これによって本当の集まりの価値が下がるわけではない。むしろ、間にあるこうした小さな連絡こそが、それが実現する日までその関係をつないでいる。
「連絡している」とみなす基準を下げることは、時間がないことへの妥協案ではない。むしろ、時間に余裕のある人などほとんどいない中で、大人の友情の多くが実際にどう保たれているかを、より正確に言い当てたものだ。
正直な但し書き
もし予定表そのものに本当に一切の余地がないなら、どんな調整の工夫も、存在しない一時間を生み出しはしない。「今は本当に何も差し出せない」という時期が正直な答えになることもある。それでも、たいていの場合、問題はその一時間が存在しないことではない。誰もが、この友情に実際に必要な分より大きくて整った時間の塊を待ち続けていて、その間に、すぐにできるはずの小さな連絡のほうは、「それでは数えられない気がする」という理由だけで、使われずに残っている。