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すぐ近くに住んでいるのに疎遠になっていく理由

誰も引っ越していない。喧嘩もしていない。同じ街に、もしかしたら同じ地区に住んでいるのに、気づけばこの友人とちゃんと会ったのはもう八か月ほど前だ。誰かにこの空白を説明しようとしても、指させるものが何もない——引っ越しもなく、喧嘩もなく、これといった一つの出来事もない。この「理由が見当たらない」感覚こそが、この種の疎遠をとりわけ落ち着かないものにしていて、だからこそ、ほかの疎遠とひとまとめにせず、これだけを取り出して考えてみる価値がある。

近くにいることが関係を保っていたわけではない

近くに住んでいることは、関係にとっての一種の保険だと考えたくなる。距離が脅威なら、距離がないことは安全なはずだ、と。けれど、近くに住んでいるという事実そのものが、友情を保ったことは一度もない。実際に関係を支えていたのは、あのころ一緒に回っていた日課のほうだ——同じクラス、同じフロアの職場、同じ時間帯のジム、誰も音頭を取らなくても毎週木曜に自然と集まる仲間。二人が親しかったのは近くに住んでいたからではなく、日々の予定がずっと重なり続けていたからで、近くに住んでいたことは、その重なりを安く手に入れやすくしていただけにすぎない。

その共有の日課が終わると——勤務時間が変わる、街の反対側に転職する、子どもが違う学校の年間予定に入る、ジムの会員を更新しなかった——地図上の距離はまったく変わっていないのに、重なりのほうは止まってしまう。住所は、なぜ会わなくなったのかをまったく説明してくれない。実際に効いていたのはあの日課であり、それはもうなくなっている。

「近いんだから、いつでも会える」は安全網ではなく罠

引っ越した友人は、行動を促す合図を自動的に持つ。不在は目に見えるし、期限があり、それがちょうどいい焦りを生む——窓が閉まる前に会うか、しばらく会えないと受け入れるか。まだ十分ほどの距離に住んでいる友人には、その合図が一切ない。閉まりかけている窓がないので、「今こそ動くべきだ」とはっきり感じる瞬間も永遠に訪れない。「近所みたいなものだし、また今度会おうね」は、居心地のいい先延ばしとして永遠に続いていく。事実として常に成り立っているのに、緊急性としては一度も成り立たないからだ。こうして何か月もが互いを溶かし込んでいき、しかも「この関係を静かに終わらせよう」とはっきり決めた瞬間は、どこにも存在しない。

このことははっきり言葉にしておく価値がある。「近くにいるから、いつでも会い直せる」という思い込みそのものが、実際に会うために必要だったはずの圧力を取り除いてしまう。遠くに住む友人には、帰省のタイミングに合わせて予定が組まれる。近くに住む友人には何の予定も組まれない。「近い」というだけで、予定を組む必要すらないように感じられてしまうからだ——一年が経って、実はそうではなかったと気づくまでは。

「同じ街」は思っているほど効いていない

「同じ街に住んでいる」ということが実際の生活で何を意味するかも、正直に見ておく価値がある。多くの街では、街の反対側に住む友人は、通勤や渋滞、二人のまったく違う夜の過ごし方を考慮すると、実質的には別の街に住んでいるのと変わらない。六時に仕事が終わる友人と、子どもを七時に寝かしつける友人は、アパート同士が車で十五分の距離だったとしても、実質的にはまったく別の時計で生きている。誰かと会えるかどうかを左右するのは地理的な距離ではなく、自由な時間が重なっているかどうかであり、同じ街に住んでいることは、その重なりも、その時間も、どちらも保証してくれない。

この種の疎遠のほうが、なぜよりつらく感じるのか

誰かが引っ越したことで疎遠になった関係には、誰もが納得できる説明が自動的についてくる。それについて後ろめたく感じる人はいない。距離そのものが、双方を自動的に許してくれるからだ。一方、二人ともまったく同じ場所にとどまったまま疎遠になった関係には、その許しがついてこない。だからそれは、何かの証拠のように感じられてしまうことがある——あの親しさは本当は大したものではなかったとか、相手はいつの間にか気にかけなくなっていたとか。そういう受け止め方には、抵抗しておく価値がある。仕組みとして、この疎遠はほかの疎遠と種類が違うわけではなく、同じように共有の日課が失われただけであり、違うのは指させる外的な原因があるかどうかだけだ。もっともらしい言い訳が見当たらないからといって、何か悪い理由があったわけではない。たいていの場合、その理由はごく普通で構造的なもの、いつもとまったく同じものだ。

近くに住む友人と、実際にまた会えるようになるために効くこと

近くにいることが元々関係を保つ仕組みではなかった以上、それを取り戻すのに「もっと近くにいる」必要はない。必要なのは、あのころの日課に近いものを、今度は意図的に作り直すことだ。

「そのうち会おうね」を、決まった約束に変える。「近いんだし、そのうちコーヒーでも」は、日付のない曖昧な誘いがすべてそうであるように、ほとんど何も生み出さない。隔週の同じ火曜日、あるいは日曜の朝に一緒に歩く、といった繰り返しの予定は、毎回あらためて決め直す必要なく、あの日課がしていたことを代わりにやってくれる。

近くに住む友人にも、遠くに住む友人と同じだけの意図的な労力をかける。外国から一時帰国する友人のために予定を空けるのを忘れる人はいない。その希少さが目に見えているからだ。近くに住む友人にも同じだけ意図的な労力が要る。ただ、その希少さが目に見えていないだけで、会える機会が実は同じくらい限られていることに変わりはない。

ちゃんとした集まりを待つのではなく、ちょっとした一言を先に送る。関係のない話題の短いメッセージのほうが、なかなか実現しないきちんとした食事の予定を待つより、会わない期間の関係を温め続けてくれる。ちょっとした連絡は「本当のつながり」の代用品ではない。長い期間においては、それ自体が本当のつながりだ。

正直な但し書き

静かになった、近くに住む友人関係のすべてを、無理に取り戻す必要があるわけではない。同じ街に住んでいるからといって、それだけで定期的に会う義務が生まれるわけでもない。年に一度会えたらうれしい、というくらいの関係もたくさんあり、それはそれで何も問題はない。この労力をかける価値があるのは、もっと狭い範囲の関係だ——正直に考えてみると、会わなくなった理由が地図上の距離とは一度も関係がなく、この隙間がこのまま広がっていったら本当に寂しく思うだろう、という相手。そうした相手に対してすべきことは、「もっと近くに住む」ことではない。もうじゅうぶん近くにいる。すべきことは、ほかの誰に対してもそうするように、具体的な一日を選んで、カレンダーに書き込むことだ。