自閉症があると、なぜ友達との連絡を続けるのが難しくなるのか
何年も付き合いのある友達から「今度ゆっくり会おうね」と連絡が来て、「うん、ぜひ」と返信するとき、その気持ちに嘘はない。それなのに、そこから一週間どころか半年以上、何も起こらない。共通の友人の投稿でふと思い出すまで、その約束は結局、日付になることのないまま宙に浮いている。傍から見れば、これは「興味がない」というふうに映りやすい。でも本人の内側では、会いたくなかったわけでは一度もない。ただ、「連絡を続ける」ということが実際にはどういう形をしているべきなのか、誰からもちゃんと教わったことがなく、そのルールをいつも、うっかり破ってしまったあとになって初めて知る、という繰り返しだった。
言葉にされたことのないルールは、誰にとってもそうだが、特にあなたには届いていない
たいていの人は、友達付き合いの「暗黙のスケジュール」を、まるで母語を覚えるように身につける。幼い頃から数えきれないほどの場面に浸り、誰にも文法を説明されないまま、自分でパターンを拾い上げていく。仲のいい友達には、だいたい数週間おきに連絡するものだと、ほとんど意識せずに知るようになる。大きな出来事のあとに急に音沙汰がなくなると、何もなくてもよくない印象を与えることを知るようになる。「今度ゆっくり会おうね」が、本気の約束のこともあれば、ただの社交辞令のこともあって、それを声のトーンだけで聞き分けられることになっている——そんなふうに。これはどこにも文章として書かれていない。無数の小さなやり取りをパターン認識し続けた結果、いつの間にか意識せずにできるようになっているだけだ。
多くの自閉症の人にとって、こうした暗黙のパターン認識は、自動的には起こらないか、起こるとしてもずっと時間と労力がかかる。ルールが身についていないのは、注意を払っていなかったからではない——その場の誰よりも注意を払っていたことすら珍しくない。ルールが身についていないのは、それがそもそもきちんと教えられたことがなく、ただ「みんなもう知っているはず」という前提のもとに放置されてきたからだ。そして、前提だけに頼って言葉にされないルールというのは、まさに伝わりにくい種類の情報だ。だから、「どのくらいの間隔で連絡するのが適切か」「あの曖昧な『今度ね』は本気なのか」「今、連絡していいタイミングなのか」——ほかの人なら考えるまでもなく分かることを、一つひとつ意識して推論しなければならず、背景で静かに自動的に処理されることがない。
注意は、多くのものに薄く広がるのではなく、一つのものに深く留まる
二つ目のしくみは、注意そのものの働き方に関わっている。大切に思っているすべての人に薄く均等に広がるのではなく、たいてい、今まさに捉えているものひとつに、まるごと強く集中する。多くの自閉症の人は、自分の集中の仕方を、浅く広い水面というより、深く狭いトンネルのようなものだと表現する。目の前にあることには深く入り込める一方で、目の前にないことにはほとんど手が届かない。ある友人関係が、今まさに進行中の会話や、一緒にしていることや、頭の中を巡っている考えの中にないなら、それは「大切ではなくなった」からではなく、それを視野の中に留めておくはずの注意が、すでに別の場所にまるごと使われているために、意識の範囲からほとんど抜け落ちてしまうことがある。
これは単純な物忘れとは違うしくみで、多くの人を戸惑わせるある現象を説明してくれる。友達と実際に会話をしているときには、完全に、惜しみなくその場にいる人——何もかも覚えていて、的確な質問を返し、全部の注意をその人に向けている——それなのに、そこから何か月も、自分からは何も連絡しない、ということが起こりうる。この人にとって、その友人関係は一度もただの背景音だったことはない。それは、視界の真ん中に完全に入っているか、それとも、何か別のことが前面に出た瞬間、ほとんど追跡の対象から外れているか、そのどちらかであって、その中間の「なんとなく気にかけ続けている」状態は、あまり存在しない。
返信のコストが、見た目より高くなる理由
社会的な間合いの取り方が無意識のうちに手に入らないなら、相手が受け取って違和感のないメッセージを組み立てることは、決して小さな作業ではない。用件から始めるべきか、挨拶から始めるべきか。「久しぶり、ごめんね」は、自分を責めているように聞こえないか、それとも普通の言い方に聞こえるか。このメッセージのあと、しばらく返事がなかったら、それは何か問題が起きたということなのか。多くの自閉症の人にとって、これらはどれも、感覚的につかめるものではなく、そのつど意識して決めなければならない、れっきとした判断だ。客観的には短いメッセージひとつのために、こうした判断を立て続けに下すには、見た目に不釣り合いなほどの労力がかかることがある。ほかの人が一度だけ、無意識のうちに払い、払ったことにも気づかないコストを、ここでは毎回意識的に払っている。
電話はこのコストをさらに引き上げる。理由ははっきりしている。電話は、下書きも読み返しも取り消しもできないまま、リアルタイムで相手のトーンとペースを読み取ることを求め、同時に自分の声とタイミングもその場で調整しなければならない。テキストなら、自分のペースで、静かな瞬間に組み立て、送る前に手直しできる。電話は、その間合いの調整をすべて生放送でこなすことを求めてくる。だからこそ、電話をかける前の一歩は、実際につながってからの会話そのものよりも、はるかに越えにくいハードルに感じられることが多い。
沈黙の両側で起きていること
連絡が途絶えているのが自分の場合
内側から見ると、「もう連絡しない」という決断をした覚えはほとんどない。あるのは、今も変わらず大切な友人関係が、今の自分の注意の外側に静かに存在していることと、待てば待つほど書きにくくなっていく一通のメッセージだけだ。一週間経つごとに、そのメッセージは「なぜこんなに間が空いたのか」を先に説明しなければならないという負担を新たに背負い込み、もともと伝えたかっただけの内容の上に積み重なっていく。その友人関係は薄れたわけではない。今もそのまま存在している。ただ、「自分から連絡する」を担当している注意の範囲に、今たまたま入っていないだけだ。
まだ連絡を待っているのが友人の場合
外側からは、このしくみはまったく見えない。見えるのは沈黙だけで、沈黙は「興味を失った」と読み違えられやすい。もしあなたが、自閉症の友人にこのパターンが当てはまると知っているなら、その知識を最も役立てられる使い方は、その沈黙をほぼ字面どおりに受け取ることだ。たいていの場合、それはあなたについてのメッセージではない。そちらから送る、短くて負担の少ない一言は、わざと距離を置いている相手に送る場合とは違って、押しつけがましいものではなく、むしろ心から歓迎されることが多い。
いちばん人を戸惑わせるところ
これを外から理解しにくくしているのは、その深さも、その空白も、どちらも本物だということだ。そしてそれは矛盾しているのではなく、同じひとつの源から来ている。目の前にあることには丁寧に深く注意を向け、目の前にないことにはほとんど向けない——これは、思いやりの度合いが二つあるということではなく、注意というものの働き方が、いつも一貫してそうなっているというだけのことだ。半年連絡がなかった友人関係と、三年前の細部まで覚えている会話は、二つの別々の関係の証拠ではない。それは同じひとつの関係を、注意がたまたまどこにあったか、その二つの異なる瞬間に切り取ったものにすぎない。
実際に助けになること
- 言葉にされてこなかったルールを、一度、はっきり言葉にしてしまう。「決まった周期で連絡するタイプじゃないし、しばらく音沙汰がなくても何かあったわけじゃない」と友人に直接伝えることで、曖昧な沈黙が、お互いにとって本当に役立つ情報に変わる。
- 「返信として成立する」基準を下げる。ひとことだけの、飾らないメッセージも、丁寧に練られたメッセージと同じだけ、その場をきちんと閉じてくれる。実際に送られるバージョンのほうが、頭の中で練られ続けたまま終わる完璧なバージョンより価値がある。
- 何度でも使える書き出しをあらかじめ用意しておく。「元気にしてる?ふと思い出して」のような、すでに信頼できる一言があれば、そのつど間合いを計算し直すコストがなくなる。判断は一度、前もって済ませておけばいい。
- コストの低いチャンネルを、意識して選ぶ。電話がハードルになっているなら、ボイスメッセージやテキストは「劣った連絡手段」ではなく、実際に実行される可能性が高いほうの手段だ。
- 「そろそろ連絡を」と自分で気づくのを待つのではなく、すでにカレンダーにある何かに連絡を結びつける。「しばらく経った気がする」という漠然とした感覚が確実にはやってくれないことを、外部のきっかけが代わりにやってくれる。
- 親しい友人には、本当はどのくらいの頻度を期待しているのか、推測せずに直接聞いてしまう。直接尋ねられれば、たいていの人は具体的な数字か、率直な答えを返してくれる。それは、文脈だけからは決して読み取れなかったはずの推測を、丸ごと取り除いてくれる。
正直な但し書き
ここまでの話は、しくみを説明すればそれで終わり、という意味ではない。友人から、その沈黙がつらいとはっきり言われたことがあるなら、それは本物のフィードバックであり、ただの説明で終わらせず、ここに挙げたような具体的な工夫で応えていく価値がある。そして、大切な人との関係を保つこと自体が、単なる摩擦ではなく、続く苦痛の種になっているなら、一人で抱え込むより、実際に力になってくれる専門家に相談する価値がある。ただ、もともと大切に思っていて、それでも空白が繰り返し起きてしまうだけなら、それはほとんどの場合、思いやりの問題ではない。誰にも声に出して説明されたことのない一連の社会的ルールと、それを前提どおりには吸収するようにできていない頭との間の、翻訳の問題なのだ。