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言葉の壁があると、なぜ友人との関係が続けにくくなるのか

旅先で、留学先の交換プログラムで、あるいはパートナーの実家で違う言語を話す家族として出会った相手。顔を合わせているあいだは、それで十分だった。同じ部屋にいるというだけで、言葉が本来しなければならない仕事の大半を肩代わりしてくれていたからだ。やがてどちらかが自分の生活に戻り、今ではメッセージ一つ送るにも、まず「翻訳」という関門を越えなければ何も始まらない。もう何か月も経っている。相手のことを思い出さない日はないのに、なぜメッセージがこんなに短く、こんなに間遠になったのか、はっきりとは分からない。しかも、相手のほうも同じように静かになっている気がする。

誰も教えてくれない、見えないコスト

母語で打つメッセージには、ほとんどコストがかからない。考える前に打ち始め、確認もせず、頭に浮かんだ数秒後には画面に文字が並んでいる。ところが、自分にとって——あるいは相手にとって——完全には自分のものではない言語だと、まったく同じメッセージに実際のコストが発生する。単語を探し、文法がこれで通じるか迷い、この言い方は温かく伝わるか、それとも変に聞こえるかと考える。そのプロセスはメッセージ本文には一切現れない。表に出るのは、返信が遅れること、あるいはそもそも送られないことだけだ。

そして、そのコストは一番かかってほしくないところにかかる。「元気にしてる?」「あれ、その後どうなった?」といった、取るに足らない小さな一言こそが、大きな会話と会話のあいだで関係を呼吸させ続けているものであり、同時に、それを組み立てること自体が小さな宿題のように感じられて、いちばん後回しにされやすいものでもある。だから人はつい、時間と気力がそろったときにちゃんと書こうと先延ばしにしてしまい、結果として送られるのは「大きな用件」だけになる。大きな用件はそう頻繁には起きない。関係がいちばん必要としていたもの——頻繁で、何でもない連絡——が、こうして先細っていく。

これは、どちらがどれだけ大切に思っているかとは別の話

ここははっきり言っておく価値がある。返信が遅く、少なくなると、それを「距離ができた」と読んでしまいやすいからだ。ところが相手のほうも、おそらく同じようにこちらの沈黙を読んでいる——冷たくなったからではなく、単に理由が分からないだけだ。会っているときはあれほど自然に話せていたからこそ、この行き違いはお互いを戸惑わせる。一文を書くという、こんなにありふれたことが本当の障害になるとは、どちらも思っていなかった。同じ部屋にいたときには、そんなふうにはまったく見えなかったからだ。

話すほうが書くより楽な場合、その逆の場合

言語力は一つの能力ではない。聞く・話す・読む・書くはそれぞれ別のペースで、別の順序で伸びていくので、面と向かってなら一時間でも話せる人が、文字になった途端に黙り込んでしまうのはごく自然なことだ。書くという行為は話すよりも自己添削を招きやすく、ぎこちない一文を隣で和らげてくれる顔もそこにはない。逆のパターンも同じくらいよくある。読み書きは落ち着いてできる人が、電話のとっさのやり取りには身構えてしまう——調べる時間も、言い直す時間もそこにはないからだ。どちらのパターンも、愛情の深さとは関係がない。その年、四つの能力のうちどれがたまたま弱かったか、それだけの話だ。

間違えることへの恐れ

第二の言語で書いた一文は、本来の意図よりぶっきらぼうに、あるいは奇妙に、温かみに欠けて読めてしまうことがある。多くの人はそれに気づくと、何度も書き直すか、ぎこちなさを見せるくらいなら送らないほうを選ぶ。皮肉なことに、書き直した末に結局送られなかったその沈黙のほうが、多少ぎこちない元の文よりもずっと冷たく伝わってしまう。

実際に役立つこと

大がかりな解決策はいらない。摩擦をいくつかの具体的な場所で、少し減らすだけでいい。

  • 「正しい」形式ではなく、得意なほうの形式を使う。書くより話すほうが楽なら、二十秒の音声メッセージは、何度も打ち直した十分間のテキストより多くを伝えてくれる。二人が同じ形式を使わなければならない決まりはない。
  • あえて短く、平易な言葉にする。誰も、整った文章を書く義務など負っていない。多少こなれていなくても率直な一文は、推敲されすぎて結局送られなかった沈黙より、ずっと温かい。そしてそれはほとんどの場合、そのままの意味で受け取られる——流暢さを見せようとしているのではなく、ただ連絡を取ろうとしている人として。
  • 一度、そのまま言葉にしてみる。「私の[言語]はあまり得意じゃなくて、書くのが気恥ずかしいから、ぎこちない文を送るくらいなら黙ってしまう」——こう一度伝えるだけで、お互いに悪いほうへ勝手に想像していた曖昧さが消え、相手にも同じように不完全でいていいという許可を渡すことになる。
  • 翻訳ツールに下書きを任せることを恥じない。翻訳アプリで文章の下書きをすることは、辞書で単語を調べることが不正でないのと同じで、劣った連絡の取り方ではない。相手に届くのは、その言葉を運んだ道具ではなく、込められた気持ちそのものだ。
  • 言葉に頼りすぎない手段を使う。写真一枚、短い動画、文法が多少怪しくても気持ちは伝わる音声メッセージ。きちんとした一文を組み立てるのがどちらにとっても重荷に感じる日には、こうしたものが連絡を途切れさせないでいてくれる。

正直なところ

旅、交換留学、海外で過ごしたひと時のように、共有していた場そのものによって成り立っていた関係もある。その場がなくなってしまえば、言語の問題を抜きにしても、残っている関係の分量はもともとそう多くなかった、ということもある。それは翻訳の失敗ではなく、その関係がもともとそういうものだっただけであり、無理に背負いきれない形へ広げる必要はない。けれど、相手を思う気持ちが明らかにまだそこにあり、返事を書くことが宿題のように感じられることだけが実際の障害になっているのなら、それは機械的で、直しようのある問題だ。友情が静かに終わったことの証ではない。