疎遠になった、あるいは終わった友人についてのメモは、残しておくべきか
まったく別のものを探していて、二年間連絡を取っていない友人についての古いメモに行き当たる。お姉さんの結婚式がいつだったか、本人が転職したてで不安がっていたこと、パクチーが苦手だということ。その関係はもう戻らないか、あるいは戻るのかどうか自分でもわからない。目の前にあるのは、もう返事をくれることのない人についての、小さくて具体的な記録だ。それは、思ってもみなかった問いを静かに投げかけてくる。これは今、何のためにあるのか。
なぜこの問いは、関係が動きを止めてから初めて生まれるのか
友情が現役で動いているあいだ、メモは明らかに「使うための道具」だ。次に会ったとき本物の質問ができるように存在していて、使うたびにその存在理由は更新される。まだ役目を果たしているメモについて、それが「何のためか」と考える人はいない。
違和感が生まれるのは、まさに更新が止まったときだ。毎週のように話す相手についてのメモは道具だ。しかし、疎遠になった相手、気まずく別れた相手、理由もはっきりしないまま離れていった相手についてのメモは、何か別のものに変わる——本人の知らないところで保管され続ける、その人についての小さな記録。次の会話がもう存在しない以上、それはどこにも向かっていかない。それは「覚えておくこと」ではなく、一見すると「手放せないでいること」のように見え始める。
この違和感が本当に指しているもの
ここでは、一緒くたにされがちな二つのことを分けて考えるといい。
その情報を持っていること自体は、居心地の悪さの原因ではない。もう会わなくなった人についての事実は、すでにたくさん抱えている。友情が終わったからといって記憶を消去する予定を組む人はいないし、誰もそれを期待していない。頭の中に静かに置かれている一つの細部を、誰も奇妙だとは思わない。
本当に見るべきなのは、その記録が今、自分の中で何をしているかだ。大切だった友情の、確かに実在した小さな一部だからこそ残しているメモと、遠くからその人を今もそれとなく追い続け、自分がいなくても人生がうまくいっていないか確かめ、頭の中で何度も繰り返している言い争いのための「証拠」を積み上げているメモとは、まったく別のものだ。一行の文字という「もの」自体は、どちらも同じに見える。違うのは、それが果たしている役割のほうだ。
残しておいて何の問題もない理由
古いメモを手放せない理由として人が挙げるものの多くは、まったく普通のことであり、いちいち正当化しなくてもいいことだと、はっきり言っておく価値がある。
それは未来の計画ではなく、実際にあった何かの記録だ。手術の前にひどく怖がっていたこと、昇進してとても喜んでいたこと——そうしたメモは、実際に起きた友情の一部だ。それを消したからといって、その友情がこれ以上終わったことになるわけではないし、残したからといってそれ以上に生きたものになるわけでもない。かつて重要だった、そして静かに今もどこかで重要であり続けている、ただの事実にすぎない。
友情は「死ぬ」よりも「疎遠になる」ことのほうがずっと多い。「終わった」と表現される友情のほとんどは、実は本当に終わってはいない。引っ越し、大した理由もなかったはずのすれ違い、連絡を取りづらくしていた時期の重なり——そうやって静かになっただけで、その一部は何年か後にまた開くこともある。会話をちょうど途切れた場所から再開できるメモは、死んだものにしがみついているのではない。どちらかがいつかまたそのドアを開けたくなったときのために、使える状態にしておいているだけだ。
単に自分自身の人生を覚えておく権利も、あなたにはある。そこに書かれていることの一部は、実は相手についてのものですらない。その頃自分がどんな人間だったか、何を大事にしていたか、二人でどんな時期を過ごしていたかの記録だ。それは他人についてのファイルというより、日記に近い。日記をつけるのに、誰の許可もいらない。
本当に立ち止まって考える価値がある場合
その逆側についても、同じくらい正直に言っておく必要がある。この違和感は、いつも見当違いというわけではないからだ。
- 連絡が途絶えたあとも、メモが増え続けているとき。共通の友人や、その人のSNSといった間接的な経路から新しい情報を追加し続けることは、その人が直接話してくれたことを、まだ手元にあった時期に持ち続けることとは別の行為だ。それは「覚えておくこと」よりも「監視」に近い。
- その内容の多くが、傷ついた出来事についてのものであるとき。うまくいかなかったことの一覧のようになり、その痛みを鮮明に保つために読み返しているメモは、記憶を保存しているのではない。傷を保存し続けているのであり、それは几帳面な記録整理と混同せず、それ自体として見つめる価値がある。
- 信頼を前提に打ち明けられた話で、その信頼自体がもうないとき。ある程度の親密さを前提にした関係の中で、友人として話してくれたことは、その親密さこそが失われたものになったとき、以前とは違って見えてくる。特に別れ方が穏やかでなかった場合はなおさらだ。当時は「大事に預かっている」つもりだったことが、あとから振り返ると別の意味を帯びることもある。それは原則論で片づけず、正直に量ってみる価値がある。
すべてを一度に決めなくていい
これは、手元にあるすべての古いメモに、一つの判決を下すという話ではない。ある細部、二人にしかわからない冗談、結婚式で会ったらまた聞きたくなるような甥っ子の名前――本当にただの記憶であるものは、残しておいてかまわない。そして、いつの間にか監視や恨み、自分に何度も語り聞かせているある物語のためのものになってしまったものは、手放してかまわない。メモを消すことは、その友情が一度も大事ではなかったと宣言する象徴的な行為ではないし、メモを残しておくことも、何かを実行しなければならない約束ではない。どちらも、かつて自分の人生と並んで歩いていた誰かについての情報を、私的に、ごくふつうに扱う方法の一つにすぎない。
正直に言うと
ここに普遍的な答えはない。「残しておくべきか」という問いが本当に尋ねているのは、そのメモが今もあなた自身や、その人との思い出に仕えているのか、それとも気づかないうちに別のもの——消化しきれない恨み、もう構わないでほしいと思っている相手を確認し続ける習慣、ある章を終わらせることへの拒絶――に仕え始めているのか、ということだからだ。あるメモについて、それに正直に答えられるなら、もうどうすべきかは自分でわかっているはずだ。もし本当にわからないなら、それも欠点ではない。きれいに整理がつく形で終わる友情もあれば、それが何だったのかを理解するのに何年もかかる友情もある。数行の古い文字が、その友情そのものと同じだけの時間、答えの出ないまま残っていても構わない。