友人関係について日記をつけるのは変なことか
友人との気まずい会話のあと、そのとき本当はどう感じたかを書く。正直に言うべきかどうか、まだ迷っていることを書く。友人がしてくれた小さなことへの感謝を書く。あとで読み返すと、内容そのものではなく、それを取っておいたという事実に対して、説明のつかない気まずさが顔を出す。自分の一日について書くのは普通に感じられる。ほかの誰かについて、たとえ間接的にでも書くのは、相手の許可がいる気がしてしまう。
友情についての日記は、友人についてのファイルではない
ここで本当に違う部分に、まず名前をつけておくと分かりやすくなる。「友人のことをメモする」ことと「友情について書く」ことは、しばしば同じ扱いを受けるが、同じ行為ではない。「手術のこと聞いた、14日、手術より回復期のほうが心配そう」というメモは、あとで使うために取っておく、相手についての事実の記録だ。「最近彼女といると自分が黙りがちになると気づいた。たぶん、いまこの友情をすごく必要としているのが怖いからだと思う」という一文は、それを理解するために取っておく、自分自身の経験の記録だ。前者の主語は友人だ。後者の主語はあなたで、友人はその画面のどこかに映り込んでいるだけ——送るつもりのない手紙に近い。表向きは相手に宛てて書かれていても、実際に行われているのは自分自身の思考に対する作業だ。
この違いは言葉の綾ではない。その文章が何のためにあるかを決める。友人についての事実は、あとで動くために——もっと良い質問をするために、記念日を覚えているために、面接の結果を訊くために取っておかれる。友情についての省察は、すでに自分がその渦中にいる何かを、もう少しはっきり考えるために取っておかれる。愛する誰かについての気持ちにじっと向き合うことを、誰も監視とは呼ばない。それを書き留めても、行為の性質そのものは変わらない。
なぜそれが監視にならないのか
この気まずさは、別のもっともな懸念から形だけを借りていることが多い。他人が関わる記録を持つこと自体が、本質的に相手を追跡する行為なのではないか、という懸念だ。それとこれを分ける点が三つある。
記録しているのは自分の内側であって、相手の行動ではない。追跡の仕組みが記録するのは相手が何をしたかだ——前回いつ返事が来たか、どのくらいの頻度で自分から連絡してくるか、姿を見せたかどうか。友情についての日記が主に記録するのは、自分の中で起きたことだ——何を感じたか、まだ分かっていないこと、自分がしていると気づいたこと。測られている対象は友人ではない。
点数のような評価が入り込まない。集計もなければ、連続記録もなく、この友情が目標より遅れているとか進んでいるといった感覚もない。「彼女から調子はどうかと訊いてくれるのをずっと待っている自分がいて、それで傷ついていいのか分からない」と書かれたページは、自分の中で何かを整理しているのであって、友人に採点をつけているのではない。
相手に何かを求めない。追跡の仕組みは、必ず相手に向けた次の行動を暗示する——連絡するように促す通知、「そろそろ連絡すべきです」という合図。日記が何かを暗示するとしても、それは自分自身に向けたものだ——言うべきかどうか、手放すべきかどうか、自分の関わり方を変える必要があるのかどうか。
実際に何の役に立つのか
正直なところ、その使い道は「気持ちの整理」という言葉が匂わせるほど大げさなものではない。友情は、行き場がないままずっと形にならずにいる、低強度の感情をたくさん生み出す。友人のある一言が少し刺さったけれど、自分が過敏なだけなのか分からない。特定のランチのあと、いつも来たときより少し疲れて帰る自分に気づく。何か大事なことを誰かに話したくなるのに、なぜためらっているのか自分でも分からない。書き留めること自体は、それらを何も解決しない。もっと小さくて、もっと役に立つことをしているだけだ。その人に会うたびに再生される、行き場のない感情のループから、それを取り出して、実際に眺められるものに変える、ということだ。
数か月後に読み返すと、一つの会話だけでは見えなかったパターンが浮かび上がってくることがよくある。ある友情が、いつの間にか一方通行になっていたこと。同じ相手と同じ話題をずっと避け続けていたこと。疎遠になったと思っていた友人が、実はずっと頭の中にいたこと。これらはどれも、記憶だけでは手に入らない。記憶が保持するのは、その人についての「いちばん最近の」感じ方だけだからだ。
疑ってかかる価値がある場合
この習慣そのものが、冒頭の懸念から免除されているわけではない。具体的に、見分けのつく形で問題になることがある。
- 一度も使われない不満の帳簿になっているとき。その内容が、友人の何が悪かったかという記録の積み重ねで、一度も本人に伝えられたことがないなら、その日記は不満を検討する場所ではなく、ため込む場所になっている。友人はその存在すら知らないまま、それはあなたの接し方ににじみ出ていく。
- ただ内緒にしたいのではなく、恥ずかしくなるとき。「秘密である」ことと「刻薄である」ことは別の話だ。もし書いた内容を友人に見られたら、正直だからではなく意地悪だから恥ずかしいと思うなら、それは日記をつけることそのものが妥当かどうかとは別に、それ自体として考える価値がある。
- 会話の準備ではなく、会話の代わりになっているとき。「これが引っかかっていると彼女に伝えるべきだ」と十一回書いて、一度も実際には伝えていないなら、それは気持ちの整理ではない。何かに対処した気分だけを、とても心地よく味わえる方法であり、実際にはただ棚上げしているだけだ。
それでも、他人の情報を抱えている
主語が自分であっても、この種の日記には必ず他人の私生活が入り込む——その人の診断、その人の別れ、その人が打ち明けてくれたこと、あなた自身のフィルターを通して。それはこの習慣自体を間違ったものにはしないが、誰かについてのどんな記録にも当てはまる注意が、ここにも同じように当てはまるということだ。自分が持っていて落ち着いていられる場所に置くこと。「これは結局自分についての話だから」を、そこに一緒に書かれている相手について不用心でいい理由にしないこと。
正直な但し書き
日記は、ある友情について自分が本当はどう感じているかを見えやすくしてくれる。それだけでその友情を直すことはできない。同じ未解決の事柄がページの中で何度も堂々巡りしているなら、そのページはもう仕事を終えている。次に必要なのは、もう一ページではなく、一つの会話だ。友人について書くことは、友人に話すことの代わりにはならない。うまくいけばそれは、自分が本当は何を言いたいのかを、はっきりさせてくれるものだ。