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友達と年始の挨拶でしか連絡を取っていないのは、薄情なことなのか

年末が近づくと、この一年ずっと連絡を取っていなかった何人かの顔が一度に浮かぶ。年賀状を書くか、まとめてメッセージを送るか、方法はどちらでもいい。相手からも返事が来て、その晩だけはちゃんと連絡が取れている友達のように感じられる。けれど年始のやり取りが一段落すると、また元の静けさに戻り、あとになってから落ち着かない疑問が残る。あれは本当に連絡を取ったことになるのか、それともただ、同じ時期に同じことをしただけなのか。

誕生日のメッセージと何が違うのか

誕生日のメッセージは、一人の人に向けて、その人だけの日に送られる。年始の挨拶はそうではない。多くの人にほぼ同じタイミングで、ほぼ同じ言葉が届く。だから、自分のことを特に思い出して送られたようには感じにくい。そのメッセージが存在する理由は自分ではなく暦であり、しかもその暦は相手だけのものでさえない。心のこもったように読める新年の挨拶を受け取っても、それが自分個人に向けられたものなのか、それとも連絡先を順番に見ていく途中でついでに含まれただけなのか、正直なところ分からないままになる。

これは考えすぎではない。誕生日のメッセージには受け取る人が一人しかおらず、存在する理由も一つしかない。年始の挨拶は、仕組みとしては一斉配信であり、自分はたまたまその宛先の一人に含まれているにすぎない。同じ端末から、同じ指で打たれたものであっても、一斉配信と一対一のメッセージは、やはり別のものだ。そのことは、無理に「気にしすぎ」だと自分に言い聞かせる前に、まず認めていい。

その落ち着かなさは、本当は何を指しているのか

正面から考えてみると、この居心地の悪さは頻度の問題ではない。年に一度という点では誕生日のメッセージとまったく同じ頻度であり、そちらには誰も眉をひそめない。本当に問われているのは、自分が具体的な一人として扱われたのか、それとも通り道の一つだったのかということだ。「明けましておめでとう、良い一年になりますように」という一文は、誰に送っても成立してしまう。それはつまり、その人のことを知らなくても書けてしまう、ということでもある。

そしてこの違いを、人は証拠がなくても感じ取る。何も入っていない挨拶は、目を通されて、ほんのり温かい気持ちになって、翌朝にはだいたい忘れられる。そこにその人だけに当てはまる一言——今年転職したこと、子どもが生まれたこと、大変な一年だったこと——が入っていると、文字数もタイミングも同じ年始の挨拶であっても、まったく違うものとして読まれる。

年に一度が、正直なサインであるとき

生活の中で確かに存在してはいるものの、もう中心にはいない相手——気の合った元同僚、すでに終わった時期に知り合った友人、自然に解散した集まりの一員——に対しては、年始のタイミングで届く一年に一度の挨拶は、本来もっと近いはずの関係を怠けて薄めた結果ではない。それは、今のふたりの関係にちょうど見合った、正直な分量なのだ。それ以上を送ったところで関係が深まるわけではなく、ただお互いに今は受け止める余裕のない場所に労力を注ぐだけになる。

一通の挨拶では支えきれなくなるとき

これが、聞かれれば迷わず「大切な友人だ」と答える相手になると、話は変わってくる。その場合、年始の挨拶は「ちょうどいい連絡の頻度」を表しているのではない。一年のあいだ他の時期がすべて静かになってしまった友情を、たまたまみんなが挨拶を交わすその一つの時期だけが支えている、という状態だ。問題は挨拶そのものではない。一年のうちに他の連絡のきっかけが何も生まれておらず、誰もが送るその一通が、本来もっと多くのもので支えられているはずの関係の重みを、一人で背負わされてしまっているのだ。

年始の挨拶にしかできないこと

誕生日のメッセージにはできないことが、年始の挨拶には一つある。相手について具体的な何かを覚えていなくても、送る理由として成立するという点だ。誕生日のメッセージには誕生日という個人的な事実が要る。新年の挨拶には「今年も一年が終わった」という、お互いに共有している事実しか要らない。だからこそ、本当に連絡が途絶えてしまった相手——少しずつ疎遠になったのではなく、けんか別れでもないのに、ある時からすっかり静かになってしまった相手——に最初の一言を送るとき、年始の挨拶はいちばん摩擦の少ない選択肢になる。「あけましておめでとう、しばらく連絡していなかったけど、ずっと気になっていた」という一文は、長い沈黙をわざわざ説明する重さを引き受けてくれる。年始という機会そのものが、なぜ今連絡したのかをすでに説明してくれているからだ。今この瞬間に要求することがそれだけ少ないからこそ、まだそこにあるかどうか自分でも確信の持てない扉を、もう一度押してみるための良い方法になる。

正直に言うと

本当に望んでいるのがその人ともっと近づくことなら、ここまでの話はその代わりにはならない。年に一度の挨拶が、自分が恋しく思っている友情の代わりを務めてくれることを期待しているなら、どれだけ言葉を工夫しても、それは叶わない。けれど、生活の中で「遠すぎもせず、中心でもないけれど、確かにそこにいる」という位置にいる、より多くの人たちにとっては、みんなが挨拶を送り合うその日に書いた、具体的で本心からの一文は、質の劣った連絡の仕方ではない。それが本当に何でもなくなるのは、その一文が誰に送っても同じだったときだけだ。