友人のSNS投稿をミュートするのは、友情に対して薄情なことか
友人が同じ話題ばかり投稿している時期がある。趣味のこと、始めたばかりの副業、筋トレの記録、自分にはあまり関心のない意見——一週間に何十件も流れてきて、気づけばタイムラインの大半がその人の投稿になっている。ミュートという選択肢がすぐそこにあることは分かっている。ミュートしても相手には何の通知も届かず、フォローが外れるわけでもなく、向こう側からは何も見えないことも分かっている。それでも指が止まる。まるでこの友情に対して何か後ろめたいことをしているような気がするからだ。実際に音量を下げたいのは、その人自身ではないのに。
ミュートが実際に変えるものと、まったく触れないもの
まずはっきりさせておく価値がある。ミュートとは、その人の投稿をあなたの暇な時間に流れてくるタイムラインへ配信するかどうかという、アルゴリズム上の一設定にすぎない。友情そのものにつながる線は一本もない——メッセージのやり取りにも、電話がかかってくるかどうかにも、いざという時に駆けつけるかどうかにも、何もつながっていない。それでも混同してしまうのは、プラットフォームが「見えていること」と「つながっていること」を同じものだと思わせるように作られているからだ。人の顔と、その人の投稿の連なりを隣り合わせに表示し、そのひとまとまりを「つながり」と呼ぶ。だから投稿の音量を下げることが、その人自身の音量を下げることのように感じてしまう。だがタイムラインは友情そのものではない。友情にたまたまくっついている、ひどく賑やかな一つのチャンネルにすぎず、そのチャンネルの音量だけを下げて、関係そのものを運んでいる部分には何も触れずにいることができる。
その後ろめたさは、実は相手についてのものではない
ここにある居心地の悪さの多くは、これから何か悪いことをしようとしているという合図ではない。むしろ、アプリが何年もかけて静かに植えつけてきたある前提の名残だ——見えていることが気にかけていることと同じで、すべてを見ないことは小さな引き算になる、という前提。この前提のもとでは、ミュートは友情そのものへの判定として読まれてしまうが、実際に判定しているのは、人生のある時期における、ある種の投稿の、ある分量についてでしかない。ある人の日々の投稿を追うのが正直しんどいと感じながら、同時にその人の本当の近況を心から知りたいと思うことは十分にありえる。この二つは別の好みであり、そのうちの一つしか友情には関係していない。
投稿の量は、気持ちの量ではない
ほとんど何も投稿しない人もいれば、夢中になっている趣味や立ち上げたばかりの事業について一日に何十件も投稿する人もいる。その違いが語っているのは、その人がアプリをどう使っているかであって、お互いがこの友情をどれだけ大切に思っているかではない。この二つを意図的に切り離しておく価値がある。というのも、賑やかなタイムラインを強い友情の証だと錯覚し、静かなタイムラインを弱い友情の証だと錯覚しがちだが、投稿の頻度と親密さのあいだにはほとんど相関がないからだ。一度も投稿しない友人が、何を置いても駆けつけたい相手であることはある。関心のない話題を一日に何十件も投稿する友人が、まったく同じくらい駆けつけたい相手であることも、同じようにありうる。タイムラインは、あなたが思っているものを測ってなどいない。
ミュートが友情を脅かすどころか、守ることもある
ミュートには、あまり知られていないけれど本物の利点がある。それはあなたを、より薄情な友人にではなく、むしろ良い友人にしてくれることがある、という点だ。日常的な投稿でタイムラインが賑やかすぎると、本当に大事な知らせ——転職、つらい時期、実際にメッセージを送るべきだった出来事——がその中に埋もれてしまう。量に慣れきった目には、他の投稿と同じ速さで流れていってしまうのだ。必要のない雑音を下げることは、必要な部分に向ける注意を研ぎ澄ますことにつながる。それに、相手の投稿を眺めるだけで「近況は把握した」ような錯覚を持ってしまうことも防げる。その錯覚があると、実際にメッセージを送る必要性がなんとなく薄れてしまう。タイムラインは連絡の代わりになったことなど一度もない。ミュートは、それが連絡のふりをするのをやめさせるだけだ。
それが別の意味を持ち始めるとき
正直な例外もここで名指ししておく価値がある。存在しないふりをすれば、この文章はかえって役に立たなくなる。もしその人に関する投稿をとにかく一切見たくなくてミュートしているのだとしたら——例えば何かでぎくしゃくした後や、その人の生活を見ること自体がつらくて、その気持ちにまだ正面から向き合えていない場合——それは、うるさい趣味アカウントをミュートするのとは違う行為になる。ボタンは同じでも、そこでしていることは違う。一方はタイムラインの管理であり、もう一方は、本来は実際の会話が必要な状況を、タイムラインの設定を使って静かに避けているだけかもしれない。もし後者に近いなら、正直なやり方は、ミュートをそのままにして「もう対処した」ことにするのではなく、そもそもの問題がタイムラインではなかったと認めることだ。
正直に言うと
ミュートは音量調整であって、コミュニケーションの手段ではない。自分が今どちらを求めて手を伸ばしているのか、正直に見極める価値がある。ミュートは誰かの様子を尋ねてくれるわけではないし、本当に修復が必要な何かを直してくれるわけでもない。けれど、それが本来の役割どおりに——必要以上にうるさくなったチャンネルの音量を下げるために——使われるなら、それは自分の注意力を管理するごくありふれた行為であって、今も大切に思っている人への静かな裏切りではない。大事な友情の多くを実際に支えているのは、メッセージであり、電話であり、いざという時に駆けつけることであって、そのどれにもミュートボタンは触れない。