もう終わった友情を、今も恋しく思うのは普通のことか
もうずいぶん経った。喧嘩をしたわけでもなく、謝ることも特にない。連絡したところで「元に戻す」ような相手も、もういない——その友情は、もうそこにない。それなのに、あの曲が流れてきたり、よく一緒に行った店の前を通りかかったりすると、恋しさが不意に、しかも自分でも説明のつかない強さで込み上げてくる。とっくに手放したはずのものにしては、重すぎる気がする。それが普通のことなのか、あるいは終わらせてしまった自分が何か間違えたということなのか、心のどこかで自問しているなら、先にはっきり言っておきたい。それは普通のことで、あなたが恐れているようなことは意味していない。
この種の恋しさが、どこにも置き場を持たない理由
誰かが亡くなったときの喪の作業には、形がある。葬儀があり、言葉があり、時間が必要だという前提が周囲にもある。静かに終わった友情には、そのどれもない。花を送る人もいない。印をつける日もない。それがいつ終わったのか、はっきり言えないことすら多い。たいていの友情は、ある一日に終わるのではなく、ある季節をかけて終わっていき、終わったと気づいたときには、もうしばらく前から終わっていることがほとんどだからだ。
この「置き場のなさ」は、些細な点ではない。むしろ問題の大部分がそこにある。認められた形を持たない喪失感は、消えてなくなるわけではなく、ただ行き場を失う。亡くなった人を恋しく思うようには、食卓でふと口にすることもできない。「もう連絡を取っていない人を、これといった理由もなく恋しく思っている」という話は、普通の会話の中に自然な置き場所を持たないからだ。だから、それは一人で、静かに抱えられることになる。周りの誰もそれを「喪失」として扱ってくれないので、大げさに考えすぎているのは自分だけなのではないかと思えてくる。そうではない。あなたはただ、この文化がまだ儀式を用意していない何かを悼んでいるだけだ。
その恋しさが、実際には何についてのものか
ここは具体的に見ておく価値がある。「あの人が恋しい」という一言には、たいてい二つか三つの別々のものが一緒くたに入っていて、分けて考えるほうがずっと扱いやすくなるからだ。
その人自身を恋しく思っている場合。 その人特有のユーモア、話し方のくせ、説明なしに自分のある部分を分かってくれた事実。これがいちばん単純な形で、文字通りの意味だ。
その人といたときの自分を恋しく思っている場合。 ある友情は、他の場所ではなかなか出てこない自分の一面を引き出してくれる——もっと笑える自分、もっと素直な自分、もっと肩の力が抜けた自分。友情が終わると、その自分もふだんの出番を失う。恋しいのは、相手であると同時に、その自分でもある。
その友情が属していた人生の一時期を恋しく思っている場合。 特定の部屋、特定の仕事、特定の街——友情は、その時期まるごとの手ざわりを一緒に運んでくることがある。その友人を恋しく思うことと、自分の人生のあの一章を恋しく思うことが、一つの感情として押し寄せてくることも多く、だからこそ、その人とは直接関係のない瞬間——匂い、通り、ある種の午後——に、いちばん強く来ることがある。
この三つのどれも、亡くなった人を恋しく思うことより軽い喪失ではない。それは別の種類の喪失であり、しかも相手はたいてい今も生きていて、理屈のうえでは連絡も取れる、という特有の難しさがある。そのぶん、終わりとして実感しづらく、ややこしいことに、かえって手放しにくいこともある。
恋しく思うことは、その友情を復活させるべきだという意味ではない
ここは正面から向き合っておく価値がある。恋しさという感覚そのものが、行動を起こす合図だと誤読されがちだからだ。必ずしもそうではない。多くの友情は、それが起きていた年月にはまさに正しい形をしていて、今のお互いになった状態で連絡を取り直しても、同じようには成り立たないことがある——誰かが悪い方向に変わったからではなく、その友情を成立させていた具体的な条件(近くにいたこと、人生の同じ段階にいたこと、当時それぞれがまとっていた特定の自分)が、単純にもうそこにないからだ。どれだけ好意があっても、戻ってくるのは「文脈」ではなく「人」でしかない。
友情を恋しく思うことは、地図を失って迷子になることより、かつて住んでいた街を懐かしむことに近い。引っ越して離れた街を愛し、しょっちゅう思い出すことはできても、引っ越して戻ったところで、本当に恋しいものが再現されるわけではないと分かっていることもある。恋しいものの一部は、そこに住んでいたころの自分自身だからだ。友情にも同じことが言える。ある記憶が今も心を動かすということは、その友情に未解決の用件が残っているという証拠ではない。単に、それが大切なものだったというだけかもしれない。
それとどう付き合うか
解決すべき問題ではなく、ただ恋しいままにしておく
すべての感情に、対応する行動が必要なわけではない。その波が来たときに感じ、過ぎていくのを待ち、それを「関係を再開すべきという課題」として扱わなくていい。「これを恋しく思っていて、同時にそれは単に終わったことなのだ」と受け止めることは、それ自体で完結した、誠実な向き合い方であって、目をそらしていることにはならない。
役に立つなら、何を恋しいのか具体的に書き出してみる
具体的なもの——ある会話、二人だけに通じた冗談、相手がかつて力になってくれた瞬間——を名指しすることで、漠然とした痛みが、もっと扱いやすい大きさに縮まることが多い。それはまた、上に挙げた三つのうちどれを実際に恋しく思っているのかをはっきりさせてくれ、それだけでも重さが和らぐことがある。
本当に連絡が取れる相手なら、気負わない一言も選択肢に入る
終わったものへの喪失感のように感じていたものが、実は終わったように見えているだけで、二人ともきちんと言葉にしないまま今に至っている友情だった、ということもある——判断がつかない場合は「関係が終わったのか、それとも静かになっているだけなのか」というテーマも参考になる。本当に判断がつかないなら、誠実で気負わない一言は、コストがほとんどかからないうえ、どちらの答えであれ、はっきりさせてくれる。ただしこれは、本当に判断がつかない場合に限られる。すでに終わっていると分かっているものを、自分に言い聞かせて再開させるための手段ではない。
その恋しさを、今の自分への判定にしない
よくある落とし穴は、昔の友情のあたたかさを物差しにして、今の関係をそれと比べてしまうことだ。まるでそれ以降、何一つそれに及ばないかのように。遠く過ぎ去った友情のほとんどは、時間の経過とともにつらかった部分が薄れて記憶されているものであり、それと比べるのは、今の生活の中にいる人たちに対してフェアではない。昔の友情は、大切だったという事実を保ったままでいい。それを、今の関係を見劣りさせるための道具にする必要はない。
正直な但し書き
その恋しさが、何か現在進行形の本当のことを伝えようとしている場合もある——その友情が終わった理由が、実はまだ修復できるものだったり、「もう完全に終わった」という物語を自分に語り続けてきたけれど、実はそこまで完全ではなかったり。一度、それが本当にそうなのか確かめてみる価値はある。しかし、もし答えがすでに分かっているなら——終わり方は正しかった、それを成り立たせていた条件は本当にもうない——その恋しさは、決断を待っている問いではない。それは、持つ価値のあるものを、かつて確かに持っていたということの感触にすぎない。それは「きちんと区切りをつけられた」ことより小さなものではない。むしろ、そちらのほうが誠実なのかもしれない。