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友情が、人生のある一時期だけのものだったとしても

かつて同じ職場にいた友人がいた。同じ建物に住んでいた友人がいた。あるいは、新米の親としての大変な一年や、つらい時期をともに過ごした友人がいた。そのどれもが、今はもう終わっている。二人は確かに、ある特定のかたちで近しかった。そしてやがて、喧嘩をしたわけでも、どちらかが何かを決めたわけでもなく、ただ二人をつないでいたものがなくなったという理由だけで、連絡は静かに止まった。これを「失ったもの」として片づけるのは簡単だ。だが、そうとは限らない。

「季節のような友情」という考え方はどこから来たのか

「人が人生に現れるのには、理由のためか、季節のためか、それとも一生のためかのいずれかだ」という言い回しを、どこかで目にしたことがあるかもしれない。作者のはっきりしない引用として出回り、マグカップに印刷され、あまりに繰り返し語られるうちに、根拠のある知恵のように聞こえ始める。だがこれは研究ではないし、研究として扱うべきでもない。それでも語り継がれ続けているのは、多くの人が実際に感じていながら、それを言い表す言葉を持たなかった何かを、この言葉が言い当てているからだ——友情は、一生続かなくても、失敗ではなく、完結したものでありうるということ。

この言葉が正しく捉えているのは、その見方の転換だ。語られていないのは、本当に役目を終えた友情と、しばらく静かになっているだけの友情とを、どう見分けるかということ——そしてこちらの方が、はるかに難しく、はるかに役に立つ問いだ。

「ある時期のための友情」とは、実際どういうものか

友情の中には、ほとんどまるごと状況によって成り立っているものがある。同じ職場、同じ学年、同じ子育ての時期、同じつらい一年。だからといって、その友情がその間、偽物だったわけではない——親しさは本物だったし、交わした会話にも意味があったし、相手はたしかにあなたのことをよく理解していた。それが意味するのは、その友情が、状況とは無関係に二人が互いを選び続ける力だけでなく、状況そのものによっても支えられていたということだ。その状況がなくなったとき、その友情のどれだけが状況から独立していたのかが、初めてわかる。

それは欠陥ではない。単に、多くの友情がそういうものだというだけのことであり、三年間だけぴったりと続いた関係が、それより劣っているわけではない。つらい一年を一緒に乗り越えてくれた友人と、今ではほとんど話すことがなくなったとしても、その友情が終わったからといって、その人が劣った友人だったことにはならない。その友情は、果たすべき役目を果たしたのだ。

なぜこれを失敗と感じる必要がないのか

かつて大切だった友情が静かになると、その沈黙に説明を求めたくなるのが人の性だ——記憶にない仲違いがあったのではないか、自分が何か間違えたのではないか、自分はもう好かれる人間ではなくなったのではないか、と。しかしほとんどの場合、そのどれも本当ではない。その友情には、あなたの人生のある時期にぴったり合ったかたちがあっただけで、その時期が終わったということにすぎない。

大げさにせず、正直に「これは季節のような友情だった」と認めることは、よくある二つの対応よりも、たいていやさしい。一つは、義務感から、もう気力の残っていない連絡を無理に続けること。もう一つは、疎遠になるにまかせながら、内心ではその疎遠さを「自分は人間関係を維持できない人間だ」という証拠として扱うことだ。どちらも必要ない。友情は終わっていながら、同時に、持てて本当によかったものでもありうる。

いちばん間違えやすいところ

「季節のような友情」という捉え方の危うさは、それを早く使いすぎてしまうことにある——本当は終わっていない、長く続く友情なら誰にでも時おり訪れる、ただの静かな時期にすぎない関係に対して。この二つは、内側から見るとほとんど同じに見える。連絡が減り、報告することも減り、次に話すときに少し気まずさが残る。違いは、その静けさがどう感じられるかではなく、たいていの場合、何が原因でそうなったかにある。

状況によって成り立っていた友情が、その状況を完全に失った場合——二人がともに辞めた職場、二人がともに離れた街、すでに決着のついたつらい時期——それは続く構造的な理由を失ったということであり、「あれは一つの季節で、良い季節だった」と考えるのは妥当だろう。一方、生活が忙しくなったから、あるメッセージへの返信をしそびれてそれっきり気まずくなったから、あるいは特に何も起きなかったから静かになった友情は、何一つ取り返しのつかないものを失ってはいない。失ったのは勢いだけであり、これはまったく別の、はるかに立て直しやすい問題だ。後者を前者として扱ってしまうと、本当はただ休んでいるだけだった友情が、一人の思い込みだけで、静かに「終わったこと」にされてしまう。

正直な見分け方は、どれだけ静かだったかではない。二人をつないでいたものが本当になくなった、構造的な理由をあなたが言葉にできるかどうか——それとも、実際にメッセージを送ってみたら、案外まだそこにあると感じているのではないか、ということだ。

季節のような友情を、気持ちよく終える

正式な別れの儀式は必要ない。わざわざそれを作ろうとすると、かえって何もしないより気まずくなることが多い。もっと助けになるのは、その友情に終わりがあったことを恨まないこと、そして状況がもうエネルギーを与えてくれなくなった親密さを、無理に演じ続けようとしないことだ。偶然会ったときや、ふと思い出したときには、それを蘇らせようとする衝動なしに、それがかつてどんなものだったかに対して、ただ温かさを感じればいい。感謝や区切りは、連絡を続けることによってしか本物にならないわけではない。

そしてもし後になって、二人がまた同じ街に住むことになったり、かつて二人をつないでいた状況が別のかたちで戻ってきたりしたなら、季節のような友情はたいてい、いちばん簡単に再び拾い上げられる種類の友情でもある。なぜなら、その間ずっと、どちらも相手に「なぜ連絡が途絶えたのか」という説明を求めてはいなかったからだ。

正直な但し書き

努力するのをやめてしまったすべての友情が、この捉え方にふさわしいわけではない。これは本当に心を軽くしてくれる考え方であり、だからこそ、もっと元気があれば、あるいは気まずい最初のメッセージを送る勇気さえあれば、本当はまだ望んでいるはずの友情に対しても、つい当てはめたくなってしまう。ある友情を「もともとある季節のためのものだった」と結論づける前に、本当に何か構造的なものが終わったのか、それとも、どちらなのかを教えてくれるはずの、ごくありふれた一通のメッセージを、まだ送っていないだけなのか——正直に自分に問う価値がある。