人のことを覚えておくのは、打算的なことなのか
どこかで、人の名前を覚える、前に話していた面接や手術や旅行のことを覚えていて聞き返す、というアドバイスを目にした。試してみると実際にうまくいった。相手はやわらかくなり、会話は楽になり、気が利く人だと言われるようになった。ところが、そのアドバイスの出どころを思い出す。契約をまとめるための本。名刺交換の場で使う攻略ガイド。初対面の九十秒で好かれるための章。そこで一段冷たい問いが浮かぶ。誰にでも効くように作られた技術なのだとしたら、それを本当に大切な相手に使うのは、打算的なことなのだろうか。
「打算的」であるために本当に必要な条件
ここは正確に言っておく価値がある。「打算的」という言葉は、自然に湧いたのではなく意図してやったことなら何にでも当てはめられるほど緩く使われがちで、その定義だと普通の気づかいの半分が濡れ衣を着せられてしまう。本当の打算にはもっと具体的な形がある。その行為が相手の負担のうえに自分の得を成り立たせていること。相手がその意図に気づかないことを前提にしていること。本物の敬意の代わりに使われていること。この三つがそろっている。頼み事をするための世辞が打算的なのは、この三つが同時に成り立っているからだ。自分が得をし、相手が本気だと誤解して初めて効き、そしてその下には本物の敬意がない。
誰かの一言を覚えておくというだけでは、この条件を一つも満たさない。母親の手術のことを覚えていても、相手に隠れたコストは発生しない。隠すべきことも何もない。あなたがそれを書き留めていたと知られても、気まずくはならないはずだ。そして、これをする人の多くにとって、その気づかいは何かの代わりに演じているものではなく、それ自体が本体であり、忙しい一か月を生き延びるために書き留められているだけだ。どちらも、内側から見た打算の姿ではない。
同じ動作、まったく違う動機
とはいえ、この不安には理由がある。外から見える行動そのものは、本当にどちらも同じだからだ。訓練を受けた営業担当が子どものサッカーの試合について尋ねるのと、本当に子どもがサッカーをしていることを覚えている友人が尋ねるのとでは、ほとんど同じ一言になる。外から見ている限り、両者を見分けることはできない。この問いが浮かぶのはまさにそのためだ。あなたはその仕組みを、それを道具として使うと公言している場所から学んだ。だから、その仕組み自体にその意図が最初から組み込まれているのではないかと疑うのは、無理もないことだ。
だが、組み込まれてはいない。仕組みは、そもそも重要な部分ではなかったからだ。人脈作りの本が教えるのは、気づかいの外形——質問の仕方、話の広げ方、ちゃんと聞いていたように見せる方法——であり、それを教えるのは、その外形が実際に人の心を動かすからで、心を動かすことこそがその本が売っているものだからだ。しかしその外形は、日常のもっと現実的な何かの下流にある。あなたを大切に思う人は、実際に面接がどうだったか尋ねる。本当に知りたいからだ。技術がその行動を発明したのではない。本物の関係からその行動だけを抜き出して分解し、興味は持っていないのに効果だけは欲しい人に売り直しただけだ。本物の関心がある関係の中で、同じ行動を取り戻すことは、打算ではない。もともと本気で言おうとしていた言葉が、たまたま何かの教本にも載っていたと気づくことに近い。
実際に見分けられる方法
外見だけでは区別できない以上、正直に見分ける方法は、自分にしか答えられない問いを立てることだ。もしこの人がこの先二度と自分に何も返せなくなったとしても、それでも覚えていて、それでも尋ねるだろうか。打算に基づく気づかいは、本人が自覚していなくても条件つきになる。誰が役に立ちそうかを追いかけ、その役立ちが尽きた瞬間に、静かに立ち消える。本物の記憶にはその依存がない。引っ越していった友人、もう自分にとって旅行案内役ではなくなった友人、そもそも何も返せなくなった友人にも残り続ける。自分にとって得られるものが何一つなくなった十年後にも、それでも「お母さん、その後どう」と聞いている自分を想像できるなら、それは技術ではない。それは、気づかいを書き留めたときに、もともとそうあるべき姿をしていただけだ。
もう一つ、もっと早い確認方法がある。相手が、あなたがどうやって、なぜそれを覚えていたのかを正確に知ったとして、気まずくなるだろうか。打算が実際に潜んでいるのは、この「隠す」という部分だ。誰かに技術を使っている人は、それが自然に湧いたものだと相手に思わせたい。仕組みが見えた瞬間に効果が消えるからだ。母親の手術日を、聞き忘れないためだけに書き留めていた人には、それを隠す理由がない。むしろ多くの人はそれを聞いて心を動かされる。気味悪がられるのではなく。その手間が、相手に向けられたものであって、相手を出し抜くためのものではないからだ。
本当に変質してしまう場合
この不安は根拠のないものではなく、実際に変質するケースも存在する。覚えておくことが、その人自身とは無関係な目的のための手段になったときだ。人あしらいが上手いと見られたいだけで細部を集めるとき、あとで利用するために相手の弱みを記録しておくとき、役に立つ間だけ温かくして役に立たなくなった瞬間に冷めるままにしておくとき。これらを打算的にしているのは、記憶そのものではなく、その人が地位や取引材料や優位性といった別のものへの手段として扱われていながら、その関心は自分に向けられたものだと思い込まされている、という構造だ。これは実在するカテゴリーで、それが引き起こす不快感には根拠がある。ただし「意図して覚えておこうとする行為」全般よりはずっと狭いカテゴリーであり、この問いを立てる人のほとんどは、そこからかなり遠い場所にいる。
この心配をするのは、たいてい気づかいのある人だ
ここには、はっきり言っておく価値のある皮肉がある。自分の気づかいが打算的なのではないかと立ち止まって考える人は、めったにそれを心配する必要のない人だ。実際に害をもたらす種類の打算は、自分の動機をいちいち問い直さない一種の自信を伴って動いていることが多い。忙しく動いていて、振り返る暇がない。この居心地の悪さに向き合い、思い直し、優しい習慣が実はどこか冷めた計算なのではないかと考え込むこと自体が、心配している当のものが存在しない証拠になっている。本当に技術を使っている人は、それが打算にあたるかどうかで眠れなくなったりはしない。
正直な補足
だからといって、動機さえよければすべて許されるわけではない。人は本気で始めたことでも、何年もかけて、気づかないうちに関係を道具のように扱うようになっていくことがあり、動機がずっと純粋なままだと決めつけず、時々振り返っておく価値はある。それでも、友人の母親の手術の日を、子どもの名前を、緊張していた仕事の話を覚えておくこと自体は、倫理的な重みが置かれる場所ではない。重みがあるのは、その記憶をあとでどう扱ったか、そしてそれが自分の役に立たなくなった日にも残っているかどうかだ。この問いを立てる人のほとんどにとって、その答えはすでに何度も出されている。ただ、それを自分が受けている試験だとは、一度も思っていなかっただけだ。