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友達のつらい出来事があった日を、どうすれば忘れずに覚えていられるか

一年前のちょうどこの時期に、友達のお母さんが亡くなった。あるいは、友達の結婚生活が終わった。あるいは、もうすでに名前まで考え始めていた妊娠を、友達は失った。あの頃、そのことが二人の会話のほとんどを占めていた。一年経って、同じ日がまた巡ってくる。何の印もついていない、ごく普通の一日として。あなたはそれにまったく気づかない——友達のことをもう気にかけていないからではなく、その日を覚えておくためのしくみが、そもそも自分の生活のどこにも存在しなかったからだ。だが友達にとっては、誰かが気づいていようといまいと、その日は同じように巡ってくる。

なぜこの日は、あなたからだけ消えていくのか

カレンダーは、もともと「覚えておくべき」とされている日をきちんと記録してくれる——誕生日、祝日、結婚記念日のような、いい出来事の記念日だ。だが、もう一つの種類の日には、誰もカレンダーを用意してくれていない。友達のお父さんが亡くなった日、検査結果が返ってきた日、友達にとって大切だった関係が静かに終わった、あの午後。こうした日は、実際にそれを経験した本人の記憶の中にしか存在せず、外からの合図のない記憶というものは、他のどんな記憶とも同じように、少しずつ薄れていく。この日があなたの前を素通りして、あなたがそれにまったく気づかないとしても、それは友達への気持ちが足りないからではない。あなたには、その日を追いかけ続けてくれるしくみが最初からなかっただけであり、友達のほうは、それが起きたその日から、そのしくみをずっと動かし続けている。体と神経は、誰かに教えられなくても、その節目を自分で覚えているものだからだ。

この非対称さが、なぜこれほど人を戸惑わせるのかにも理由がある。普段の日であれば、三週間前に友達が話していた細かいことを忘れてしまっても、それは十分に許される程度の抜け落ちにすぎない。しかし、この特定の日に限っては、同じ「忘れる」という行為が、その日を実際に生きている本人にとってはまったく違う意味を持つ。それは、あなたが完璧な記憶を持つべきだという話ではない。一年のうちこの日だけは、その喪失が本人の中でいちばん大きな音を立てている日であり、その音の大きさと、周りの誰にもそれが見えていないという静けさとの落差こそが、その日いちばんつらい部分になっていることが多いからだ。

なぜこの日を覚えておく価値があるのか

悲しみを専門的に扱う人たちは、しばしば「記念日反応」と呼ばれる現象について語る。つらい出来事が起きた日の前後に、悲しみや不安、あるいは単に気分の重さといったものが、はっきりした理由が意識にのぼる前から再び強まる、という現象だ。本人がそれを「記念日だからだ」と言葉にできるかどうかにかかわらず、多くの人が、その日はどこか違う感じがすると口にする——なぜそう感じるのかは、あとになってようやく分かることも多い。

その日にメッセージを送ることが実際にしているのは、友達が忘れていた何かを思い出させることではない。友達はそもそも忘れていないし、あなたが何を言おうと、それが本人にとって新しい情報になることはない。そのメッセージが本当に答えているのは、もっと小さくて、もっと孤独な問いのほうだ——ちょうどこういう日に浮かびやすい問い、「これが起きたことを、自分以外にも覚えている人はいるのか、それとも自分一人でこれを抱えているのか」というものだ。頼まれてもいないのに、ちょうどその日に届く短いメッセージは、この問いに直接答えてくれる。これは、その年の間にどれだけ一般的な気遣いを重ねても、代わりにはならない種類の効果だ。

落とし穴——「覚えていること」を演出にしてしまう

やり方としては正しいのに、結果としては逆効果になってしまうパターンがある。もしそのメッセージが、やけに丁寧で、長くて、明らかに前もって用意してきたとわかるような、送り主がどれだけ気を配ったかを見せるためのものになっていたら、その瞬間の主役は、いつの間にか友達ではなく、「自分がどれだけしっかり覚えていたか」にすり替わってしまう。悲しみは、それがどれだけ丁寧に記憶されていたかを見届ける観客を必要としていない。実際に助けになるメッセージは、たいてい、具体的な内容をきちんと保ちながらも、送れる中でいちばん短いものだ。それは、その出来事を淡々と名指しするだけで、自分がそれを覚えておくためにどれだけ努力したかを語ろうとはせず、友達がどれだけ話したいか、あるいは話したくないかを、本人に委ねる余地を残している。もしメッセージの前に「私、覚えていたんだけど」という前置きが必要になっているなら、それはすでに、友達についての話ではなく、自分についての話にすり替わり始めている。

ほとんど手間のかからない覚え方

その日を覚えておくのに最適なタイミングは、あとになってそれがいつだったか思い出そうとする瞬間ではなく、友達が最初にその出来事を話してくれた、まさにその瞬間だ。一行で十分——何があったか、それがいつだったか、あとで実際に目にする場所に書いておく。メモでも、数日前倒しで設定したカレンダーの予定でも、自分の記憶の中以外であれば何でもいい。目的は、みんなのいちばんつらい出来事をすべて記録した台帳を作ることではなく、この一つの具体的な事実に、自分の記憶以外の居場所を与えることだ。そこはまさに、あなたの記憶力が最初から支えきれるはずのなかった部分でもある。

これは、本当に自分にとって大切な相手や出来事についてだけ行うものだ。義務感から書き留めたメモは、言葉の上ではそう見えなくても、いずれ態度ににじみ出てしまう。もし友達から、その日を特別に取り上げてほしくないと言われたなら、それをそのまま受け止めるべきであって、何が助けになるかについての自分の判断のほうが、本人の言葉より正しいと考えるべきではない。

その日が来たら、何を言えばいいか

ほとんどの場合、一文で十分だ。「今日、あなたのことを考えていた」と、具体的な出来事を名指しして伝える。あるいは、シンプルに「今日が何の日か、覚えているよ」というひとことでも、やるべきことは十分に果たせる。長い返信を義務づけるような、開かれた質問を投げかける必要はないし、こちらから計画や解決策を提案する必要もない。このメッセージは、あなたが責任を持って続けなければならない会話の入口ではない。むしろ、一言で返ってきても、長い返事が返ってきても、何も返ってこなくても、そのどれもが十分にふさわしい反応だと言えるような、小さな合図に近い。

正直な但し書き

友達が経験してきたつらい出来事のすべてに、それぞれ専用の記念日を覚えておく必要はない。すべてを覚えておこうとすると、本来は気遣いであるはずのものが、実質的には一種の記録作業に変わってしまい、そうした力の入りすぎは、たいてい相手にも伝わってしまう。本当に重みのあるものだけを選んで覚えておき、それ以外は、たいていの記憶がそうであるように、自然に薄れていくのに任せればいい。それでも一つ見落としてしまったら——日が過ぎてから思い出したなら——数日遅れて、正直に「最近になって思い出した」と伝えるメッセージでも、それは十分に本物の気遣いとして届く。この話は、そもそもカレンダーの上で寸分違わず正確であることが目的だったわけではない。友達に、この出来事を覚えているのが自分一人だけではないと分かってもらうことが、目的のすべてだった。