友人に連絡しすぎる、ということはあるのか
朝、メッセージを送る。午後になって、まったく別のことでまた同じ人を思い出し、二通目を打つ。打ってから見返して、消す。嘘だからではない。一日に二通というだけで、なんだか「重い」気がしてしまうからだ。だから寝かせておく。夜になるころにはその気持ちも過ぎていて、結局どちらも送らずに終わる。これはよく考えると奇妙な自己検閲で、もし逆の立場で、友人が一日のうちに関係のない小さな連絡を二通くれたとしても、あなたはおそらく数えることすらしないし、まして気にしたりはしない。
相手はしていない計算を、自分だけがしている
この非対称こそがすべてだ。あなたは今週何回連絡したかを正確に把握している。なぜなら、そのたびに送るかどうかを自分で決めているからで、その一つひとつの判断に、小さな自意識の跡が残る。だが友人はその回数を数えてなどいない。相手にとって、あるメッセージはリストの四番目の項目ではない。火曜日にふと届いた一つの出来事であり、日曜日に送ったものとは切り離されていて、読んだ瞬間にたいてい記憶の奥にしまわれ、めったに掘り返されない。自分が生み出したからこそ重く感じるその数字は、受け取る側からすればほとんど見えていない。
これは意識しておく価値がある。「これは連絡しすぎだろうか」という問いは、たいてい、それに答えられるはずのない唯一の視点——自分自身——から発せられているからだ。あなたは自分の発信量を、「ちょうどいい量」についての個人的な感覚と照らし合わせて監査している。その感覚は、場所を取ることへの自分自身の不安からできていて、友人が実際に発したどんな信号とも関係がない。
「多い」を実際に決めているもの
頻度は、連絡が「多い」と感じられるかどうかを、あまりうまく予測しない。もっとよく予測するのは、そのメッセージが相手に何かを求めているかどうかだ。写真、ふとした一言、「返信不要」——これらは読む側にほとんど何も要求しない。思い出してもらえたという事実を受け取るだけでいいからだ。こうしたものなら一日に何通届いても、たいていの人はそれを重さではなく温かさとして受け取る。実際に重くのしかかるのは、何かを返すことを求めるメッセージ——考え抜いた返信、感情の読み取り、深刻な出来事にどう応えるかという判断が必要なもの——だ。そうしたものが一通、悪いタイミングで届けば、前者の五通分よりも重く感じられることがある。
だから使うべき物差しは「何通送ったか」ではなく、「そのうちいくつが、相手に何かを背負わせようとしているか」だ。手間のかからない、返信を必要としない連絡は、どれだけ頻繁に届いても、受け取るコストはほぼゼロに近い。本当に「多い」と感じられうるのは、相手の実際の注意を必要とする種類の連絡のほうだ。自分が送っているのがどちらなのか、正直に見つめる価値がある。
この不安は、たいていどこから来るのか
多くの人にとって、この不安は目の前のこの友人から始まったものではない。むしろ、ある一つの具体的な経験から作られた、一般化されたルールであることが多い——連絡したら実際に冷たい反応が返ってきた友情があったとか、もっと前に、誰かに構ってほしがること自体が問題だと言われた経験があったとか。そのルールは、かつて本当にあった理由のために一度だけ作られ、その後は静かに、誰にでも——このルールに同意した覚えのない相手にまで——適用されるようになっていく。率直に問う価値がある。今、目の前のこの人から本当に何かサインが出ているのか、それとも、これは古いルールが、それを了承したことのない新しい関係の上で動いているだけなのか。
本当に「多すぎる」と言える場合
だからといって、連絡しすぎということが存在しないわけではない。それは実際にあり、はぐらかさず正直に名指す価値がある。本当のサインは量ではなく、あるパターンだ。返信がだんだん短くなっていくのに自分のメッセージは長くなっていく。以前は自分から連絡してきていた友人が、今は反応するだけになっている。あるいは、自分の側が、返信をもらわないと落ち着かなくなっていたり、返信が遅いことを小さな異変のように受け取ってしまっていたりする。これは普通の温かい連絡とは違う状況で、その根っこはたいてい回数ではなく、その関係に、支えきれないペースで自分を安心させ続けてほしいと求めていることにある。そうだとしたら、直すべきは「とにかく減らす」ことではなく、その必要そのものを預けられる、別の場所を見つけることだ。
「多すぎるか」よりいい問い
代わりにこう聞いてみるといい。このメッセージは、相手に何かを求めているだろうか。正直な答えが「いいえ」なら、回数はほとんど問題にならず、その不安げな推敲は、そもそも存在しなかった問題を解こうとしていることが多い。二通目を送ってしまおう。「自分は重すぎるのでは」と気にしているそのあなたこそ、たいていの場合、周りの人がもっと聞きたいと思っている当人なのだから。